きっと世界に マタイによる福音書 5章9節(きっと世界に)(聖書の話41)

平和を実現する人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。

(マタイによる福音書 5章9節)

今回の聖句は山上の説教と言われる、イエス様の教えをぎゅっとまとめたマタイによる福音書の冒頭部分の一節だ。 キリスト教独特の言い回しや言葉が、少し難しかったりする。 平和を実現するとは何か。天の国とはどこか。 意味を探るために、少し乱暴ではあるけれど、平和の反対を戦争、幸いの反対を不幸、天の国の反対をこの世として、今回の聖句を裏返してみた。

戦争を実現する人々は、不幸である、
この世はその人たちのものである。

悲しいことに、ある種のリアルが、この言葉から感じられるように思う。戦争を実現する。それは実際に戦争を行うということだ。 この世界を支配している人たちによって戦争が実現してしまう、その現実を私たちは以前より、最近、少し強く感じているかもしれない。 この世で成功を収めていくために自分たちはどんな人生を歩んでいくか。成功のためにはお金が必要であり、経済的な豊かさを大切にして現実を見れば、時と場合によっては戦争も仕方がない。あるいは、制裁を加えるべき悪意に満ちた国家へは、武力行使も仕方がない。自分たちの身を守るためには武器を取るべきだ。戦争を実現してしまう人たちの理屈に自分も飲み込まれてしまいそうになる。

その一方で、単純に人を殺したくない、戦争をするのは間違っている、と思っているのも本当だ。

イエス様が生涯を投じて伝えようとしたことは、とてもシンプルなことだった。それは愛するという行為。神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛することが、私たちが幸せになり天の国、神の国につながって行く方法だと教えた。 神様の支配を信じて、復讐の連鎖を止め、敵を愛し、迫害者のために祈ること。それはとても難しいことのように思える。それでも、私たちが少しずつ努力するときに、だんだんと世界が変わって行くかもしれないのだ。この世的には損をすることも度々起こるかもしれない。でも大丈夫だとイエス様はこの聖句で述べている。天の国では損をしていない、そして、何よりもあなたは幸せになる、と読み取れる。

さて、機会があったので、先日、友人たちに、ここまでの話を聞いてもらい意見をもらった。いくつかの質問と指摘があった。 その一つは愛することに自分の人生の軸足を置くときに経済的成功は犠牲になるのではないかということ。お金のことを一番に考えることは出来なくなる、そのことが誤魔化されて言及されていないのではないかという指摘。もう一つは天の国は死後に感じるものなのかという質問。そして、「幸い」という聖句の言葉は「幸せを感じる」ということと同じではないのではないかという指摘。

どれも鋭い指摘と質問だ。

僕も、イエス様の勧める道では、この世的な成功、経済的成功は難しいと思う。と同時に、本当に幸いな人生を歩めるなら、それは幸せであり、人生にとって成功であり、その幸せは生きている中で感じる天の国なのだとも思う。

憎むより愛すること。裁くより赦すこと。争うより平和であること。その一つ一つはこの世的には損で、バカバカしく思えたりする時があるかもしれない。でも、迷ったり失敗しながらであっても私たち一人一人がその道を選んで行くときに、きっと世界が、この現実の世界が変わって行くのだ。そのことを信じる。そんな人生を素敵だと思う。そんな思いで「きっと世界に」という曲を書いた。最後に、その詞を紹介する。

「きっと世界に」

誰かの涙が どこかで幸せを生み
僕らの涙が どこかで安らぎを生み
あなたの涙が どこかで争いを止めるならいいな

愛を求め 星を探し 傷つき 傷つけ 月を見上げた
繋がってる 全て 心の震えは 小さな波を きっと世界に

誰かの笑顔が どこかで喜びを生み
僕らの笑顔が どこかで平和を生み
あなたの笑顔が どこかで戦争を止めるならいいな

愛を見つけた 雨は上がる 光がこぼれて 雲は流れた
繋がってる 全て 呼び合う想いは 大きな波を きっと世界に
愛を見つけた 雨は上がる 光がこぼれて 雲は流れた
繋がってる 全て 呼び合う想いは 大きな波を きっと世界に