左の頬を差し出せるだろうか(聖書の話40)

悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

(マタイによる福音書 5章39節)

 

今回は、非常に有名で、しかしちょっと分からないなと思う聖書箇所を選んだ。職場の高校の同僚の先生からの質問を切っ掛けに、改めて学んでみた。

最初の発見は,今日の聖句との対比でよく語られる「目には目を,歯には歯を」という言葉について調べたときにあった。
目を奪われたなら,相手の目を奪ってもいい、やられたらやり返してもいい,いや,「やられたらやり返せ!」というイメージで、僕はなんとなく復讐のルールとしてこの言葉を理解していた。
しかし,旧約聖書に出てくこの言葉を読むとあることに気がつく。

 

「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」

出エジプト記 21章23節~25節

 

文章の最後は「償わなければならない」だ。つまり,この聖句は復讐の方法ではなく,償いの方法として書かれているのだ。もし誰かの目を奪ってしまったら,自分の目を差し出しなさい,歯を奪ってしまったら自分の歯を差し出しなさい,と語られているのだ。
随分印象が変わる。旧約聖書とともに,ハンムラビ法典にもある記述だが,本来,償いの方法として語られたこの言葉は,律法の中では,報復が過激に展開していくことを禁じる知恵として語られるようになっていったようだ。
今日の聖句の一つ前の聖句で,イエス様もこの言葉に触れている。

 

「あなたがたも聞いているとおり『目には目を,歯には歯を』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をも向けなさい。」

(マタイによる福音書 5章38節~39節)

 

素直に読むと,「目を奪われたときには,同じように目を奪うことまでは許す,と今までの律法は語ってきたけれども,私は新しい教えを伝える。右の頬を打たれたときには,相手の右の頬を打ち返すのではなく,加えて自分の左の頬も差し出すようにしなさい。」ということになるだろうか。
これはなかなか納得のいかない話だ。普通に考えると,ちょっと非現実的で,意味がわからない。周囲の友人たちに意見を聞いてみても、ほぼ全員が,同意できない,好きではない,綺麗ごとだ,理想主義だ,偽善的だ,ただ戦う勇気がないように思う,という見解だ。暴力がいけないことは分かっているが,受けた以上,そのことに怒りを覚えるのは当然ではないか、何も,左の頬まで差し出す必要はないではないか、というのだ。素直に受け取れないというわけだ。なんとか理解しようとして「自分は本当に悪いことをした,右の頬を打たれただけでは足りません,本当に反省しているので,左の頬も打ってください」という反省の意味ではないかという意見まで出た。
けれど,今日の聖句を読むと「悪人」が右の頬を打ったときが想定されている。つまり,こちらに非がないにも関わらず右の頬を打たれたときに左の頬まで差し出そうというわけだ。

この、どこか不思議で理解が難しい聖句を、恐らく,イエス様の言葉を聞いた当時の人たちも,驚きと違和感をもって聞いたと思う。けれど,歴史の中を生き残って,この言葉は聖句となってわたしたちのもとに届いている。そこには,どんな力が働いたのだろうか。どんな共感が起こってきたのだろうか。そういう視点で学びを進めた。

 

今日の聖句はマタイによる福音書の5章から始まるイエス様の山上の説教の中にある。7章の終わりまでを使って,多くのイエス様の教えが語られる。悪魔からの誘惑に打ち勝ったイエス様が弟子をとり,本格的に人々に教えを述べ伝え始められる最初の説教だ。
その説教は新しさに満ちてた。当時の社会の常識やルールとは違うものだった。当時の社会の常識やルール。それはモーセの十戒を中心とする律法によって形作られたものだった。その律法をただ守ることが神様の望んでおられることだと信じてきた人々は,いつの間にかルールに縛られ,ルールを守れない者を裁くことに一生懸命になっていた。「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」その窮屈さの中で生きていた。それに対して,イエス様の教えは,自由で魅力的なものだった。十戒の本質的な意味を「愛」を中心に捉えなおし,「してはいけない」というルールではなく「能動的に『愛する』」ということを人々に促したのだ。神様を愛し,自分を愛するように隣人を愛することで,律法を守る人生は実現するのだとイエス様は語る。律法の廃止ではなく完成がそこにはあるのだと語る。

しかし,自由で魅力的な教えは,同時に非常に厳しいことを要求している。今日の聖句はその代表的なものかもしれない。
愛することを軸に今日の聖句を考えるときに,愛する対象として挙げられている「隣人」が自分に関わる全ての人を指していることに気がつく。理不尽な理由で自分の右の頬を打ってくる悪人までも含んでいることに気付かされる。あきらかに悪いやつにまで愛を向けろ,その愛で左の頬まで差し出せというのだ。自分は間違っていないのに,何度も頬を打たれるなんて納得がいかない。そのことに耐えるだけでもすでに厳しい。そして,その自分に害を及ぼす相手を愛するということが,何よりも難しくて厳しい。
しかし,イエス様は力強くこのことを語り,わたしたちに迫ってくる。人々はその教えに驚いたけれど,非現実的だと感じたかもしれない。では,なぜ,この教えは今まで残ってきたのだろう。
それは,イエス様自身がこの教えを貫いた人生を歩まれたからだと僕は思う。人々を救うためにその生涯をささげられたイエス様は,自分を殺そうとする人々を最後まで愛して,十字架において,その命を差し出すその時にも「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)と彼らのために祈った。
イエス様の生涯があることによって,この教えは非現実的ではなくなったのだと思う。イエス様の歩んだ道を知っていることによって,クリスチャンにはその行為の先で起こる奇跡を信じる力が与えられるのだと思うのだ。イエス様の弟子たちや,イエス様についていった人々は,イエス様がバカにされ、けなされ,暴力を振るわれて,十字架に磔にされ,亡くなった後に,イエス様の教えが,世界に受け入れられていく奇跡を目の当たりにしたのだ。イエス様の教えが,奇跡のように真実として力を発揮することを確信したのだと思う。

非現実的と奇跡的はほとんど同じ意味の言葉だ。敵を愛し,右の頬に加えて左の頬まで差し出すときに,奇跡が起こると信じる事がクリスチャンには可能だ。それは、イエス様というそれを体現した存在があるからだと思うのだ。

 

その奇跡はイエス様以外にも見出すことができる。今回,この聖句を学んでいく中で,この聖句が決して非現実的なものではなく,奇跡的な力になりうる真実を語っているということについて,最初にイメージされたのはガンジーという人物とその行いだった。

1982年に上映された「ガンジー」という映画の前半40分の中に,印象的なガンジーの演説シーンがある。南アフリカでガンジーが非暴力直接運動という手法で差別と戦うことを実践する中で,同胞たちにその戦いへの参加を説得する演説シーンだ。
ガンジーが「何をされようと我々は攻撃しない。殺しもしない。だが絶対に指紋を押さない。そのために投獄,罰金,財産没収もあるでしょう。だが,我々が与えぬ限り,自尊心は奪えません。」と語る中,ある青年が我慢の限界となって,叫ぶ。
「投獄されたか?拷問にかけられるぞ!」
ガンジーは毅然と答える。
「戦って下さい。彼らの怒りと戦って下さい。我々は一切抵抗しません。殴られて下さい。我々が苦しむことで,彼らは不正を悟ります。痛いでしょう。戦いは痛いものです。だが負けてはなりません。彼らは責め苛み,骨を砕き,殺すでしょう。彼らは死体は手にしますが服従は手にできません。」
もちろん脚本だから,本当のガンジーの演説がどのようなものだったかは僕にはわからないが,すばらしい演説だ。非暴力直接運動という方法で,南アフリカではガンジーはある一定の成果をあげる。そして,インドの独立へとその活動を広げていくのだ。
注目すべきは,戦って下さいと彼が言っていることだ。

 

I am asking you to fight.
To fight against their anger,not to provoke it.
また,
And it will hurt as all fighting hurts.
とも。

 

戦う勇気がないから,されるがままになるのではない。暴力を黙って受けることもまた戦いなのだと思う。
僕はもともと喧嘩が苦手だし,ひどく弱いので,暴力がすごく恐いと思っていて,例えば学生から「表へ出ろ」なんて言われたら縮み上がると思う。それでも注意や指導をしなければいけないような局面で,まあ,そんなことは一度もないのだが,殴られる勇気をもって注意をする時に,そこには説得力があるだろうなと思う。「自分の間違いに、暴力を振るっている側が気付く」ということがあるのだと思う。凛とした態度で暴力を真っ向から受け取られると,暴力を振るっている側が自分の不正に気付き、惨めになっていくという不思議な現象が起こるのだろう。暴力による相手の恐怖と怯えで相手を支配した気分を味わえると思っていたのに,予定が狂ってしまって,自分の横暴さや傲慢さだけが際立ってしまうことに,逆に恐怖を覚えるということがあるのだと思う。

 

左の頬を差し出せたときの力は少しわかってきた。しかし,やはりまだ釈然としない部分が残る。

その勇気をどこから貰えばいいのかという疑問と不安。今回の聖句が愛を中心に据えた,新しい律法だという考えに立ち返るとき,敵を愛せるだろうかという根本的な問いが迫ってくる。

 

わたしたちが敵を愛せないのはなぜなだろう。悪いことをしている,間違っている人からの暴力を受けたときに,その人のことを愛せないのはなぜなのだろう。人間の本質として,それは当然のことのようにも思う。こちらに非はないように思うのだ。怒る権利があるように感じる。

加藤常昭先生の説教の中に「基本的な権利を主張する自己主張ではなく、損をしたくないという自己主張」がそこにはあるという一文があった。そうなのだ,間違ってもいないのに何回も殴られるなんて,損なのだ。損を引き受けるなんて不幸だ,そんなのイヤだと思ってしまう。しかし,加藤先生は「損をすることを誰かが引き受けることで世界は成り立つ」のだと主張する。そして,損を引き受けるためには不幸への愛,厳しい運命への愛が必要だと語っている。

ガンジーの演説を聞いたインド人たちはガンジーの提案を受け入れる。彼らは「自分たちが殴られても,たとえ殺されても差別者たちが自分たちを服従させることはできない」というガンジーの言葉に,自分たちの置かれた運命や不幸を愛する力を見出したのだと思う。

 

They can not take away our self-respect.

 

Self-respect、 自尊心を奪われないということの中に自由を見出し,不幸や運命を愛するという勇気を与えられたのだろう。差別する心に縛られている不自由な差別者たちからの暴力を引き受ける勇気を勝ち取ったのだと思うのだ。自尊心を持てないまま被差別者にとどまっていることからの開放を損ではあるが喜びをもって選んだのだと思うのだ。

 

それでは,わたしたちは,どこからその勇気を得ればいいのだろう。確かにイエス様の生涯が奇跡を証明してくれているとは思う。それは真実だとも思う。しかし,自分が実行に移す動機にはなかなかなってくれないというのも本心だ。
クリスチャンではない友人たちは,「この考え方は,好きではない」とはっきり言う。しかし,クリスチャンとして、信じたイエス様がそう語っているのだから,やはり自分も実行しなければならないのではないかと思ってしまう。そういう気分で聖書と向き合うと,クリスチャンは窮屈で不自由だと思ってしまう。

 

さて,私たちはどこに自分を置いて、この聖句を読んでいるのだろうか。正しい者として間違った誰かに頬を打たれた時のことばかり考えているのではないだろうか。ハンムラビ法典が,償いの方法を語っていることに発見があったように,一度,自分の立場を別の場所に置いてみる必要があるのかもしれない。

 

どこに。それは,右の頬を打ってしまう側にだ。誰の。それは神様の,あるいはイエス様のだ。

 

わたしたちは生きている中で罪を犯す。それはもう,どうしようもない無力さで罪を犯してしまう。平気で神様の右の頬を打ってしまうのだ。そして,その時に神様は左の頬も差し出して下さっているのではないだろうか。あるいは,イエス様を十字架にかけたのはわたしたちだったのではないだろうか。「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってもらったのは,わたしたちだったのではないだろうか。

神様の支配がなければ、この世に光はさしてこない。自分が神様の頬を打ったとき、神様は黙って左の頬をも差し出してくださった。その事実の中で、自分は自分の罪に気付いて、救われてきたのだという奇跡を受け入れる時、初めて不幸を愛し、運命を愛する勇気,損をすることを引き受ける勇気が与えられるのだと思う。

神様が世界の全ての人を愛してくださっている事を信じられるかが問われている。愛される価値のない悪人の中に自分を見出すとき,神様の愛が自分に届く奇跡と喜びを実感できるのだ。そして,神様は本当に全ての人を愛してくださっている。どんな罪をも赦す救いの手を差し伸べてくださっている。

世界を支配しているのは人間であり、損をしないように生きていく事が大切なのだと考えれば、敵のために、悪のために祈る事など出来ない。神様の愛なんてなくても,自分の力で,まあまあ正しく生きられると考えれば,わざわざ悪人のために損をする動機など生まれてこない。

わたしたちは,どちらに自分の人生を賭けるかを問われている。

自分が左の頬を差し出してもらったという経験から初めて,自分の左の頬を差し出す勇気を与えられるのだと思う。
信仰とは実践の中での確信だ。自分の罪に気がつき,神様と向き合うときに,自分の中に神様が働いて,奇跡のように左の頬を差し出せる瞬間を経験するかもしれない。神様が支配している世界の中で生きることを選ぶ時に、奇跡は形となり現実のものとなるのだと思う。そのことへの招きが、今日の聖句にはあるのだと思う。