2019.06.29_sat. 宮城・Yume Wo Katare Onagawa!(女川)

ハラダイスカウンターショウ!!@Yume Wo Katare Onagawa!

日時:6/29(土)18:30 開場/19:00 開演
場所:Yume Wo Katare Onagawa!
料金:食事付 1,500円

そうなのである。京都で育てたコンテンツ「ハラダイス・カウンターショウ!」
相方の山崎が宮城県は女川でやっているラーメン店についに上陸。
やるでーー!

ご予約は harada@obu.to  へ。お名前と人数をお知らせください。

2019.06.27_thu. 宮城・IRORI石巻

久しぶりに石巻に行きます!今回は一人で弾き語り。楽しみ!!

日時:2019年6月27日(木) 開場:19時/開演19時半
場所:IRORI石巻
参加費:1000円(ワンドリンク付き)+投げ銭

ゆっくり歌います。ぜひぜひ遊びにきてください!

2019.07.02._tue. 西院ネガポジ

原田博行ワンマンライブ@西院ネガポジ

日時:201972日(火)開場18時半/開演19時半

場所:西院ネガポジ

チャージ:前売2500/当日2800円(1ドリンク別途要)

出演:原田博行(Vo&A.G.)、日置ナオヤ(E.G.)、野本暁(per)

ご予約:harada@obu.to  「7月2日予約」と明記の上、お名前と人数をお知らせください。

 

 

やることにした!一部は久し振りに完全弾き語り。二部はこの3人で!!

2019.07.25._the,26._fri,27._sat. 京都・モダンタイムス

 

「ハラダイス10thプレライブ  indoor3days!」
日時:2019年7月25日(木)、26日(金)、27日(土)  各日18:30OPEN/19:30START

場所:モダンタイムス http://mtimes.jp/

出演:原田博行とハラダイスな仲間たち
原田博行(A.G.&Vo.)
有田さとこ(B.)、恩田貴則(Key.)、野本暁(Dr.&Per.)、日置ナオヤ(E.G.)

日替わりゲスト:
7月25日(木):ジュビレーヌ・イデアラ(Cb.)、金本洋子(Va.)、杉江洋子(Vn.)
7月26日(金):キョートン&ファンファン
7月27日(土):浅野浩太(E.G.)

料金:
【一般】前売2500円/当日2800円  二日券4500円 三日券6000円(各日1ドリンク別途要)
【学生】前売1500円/当日1800円  二日券2500円 三日券3000円(各日1ドリンク別途要)
ご予約はモダンタイムスへ。mail:info@mtimes.jp(お名前と人数をお知らせください)

2019.07.07._sun. 小倉 B&W

ついに九州へ!!ワンマンライブです!!

歌とディナー!原田博行LIVE@B&W

日時:2019/7/7 sun. Open18:00/Start19:00. (1部19:00〜19:50. 2部 20:10〜21:00)
場所:B&W (https://www.bw-blue3.com/ )
〒803-0273 福岡県北九州市小倉南区長行東1丁目9-7 / TEL : 093-453-2525
チャージ: 6000円(お食事&ドリンク飲み放題 付き)
ご予約はB&Wにお電話で(093-453-2525)人数と代表者のお名前と連絡先をお伝えください。

2019.05.18._sat. 京都・チャンノイ

20年以上続いているバンド、京都町内会バンドの京都2デイズ!今回はタイレストランと初のモダンタイムス。

1日目はライブ&オフィシャル飲み会!

日時:2019年5月18日(土) Open 15:00 Start 15:30
場所:チャンノイ
〒606-0841京都市左京区下鴨南芝町41
京都市営地下鉄烏丸線 北山駅 1番 出口 2 番出口から徒歩30秒
料金:3000円(ワンドリンク付き)

○18時〜オフィシャル飲み会
ライブ後、ゆっくりメンバーとタイ料理を食べながら懇親会!
飲み放題つき4500円!

※飲み会のみ参加も可能です。(料金5000円)

ご予約はこちらのフォームから!

14回目のMoonlight Club

最高に幸せな3日間が過ぎて行った。
「は・ひ・ふのか」で14回目となる舞台「Moonlight club 」。
この14回で本当に沢山のことを学び、表現のものすごく根本的なところを考える機会をもらっていると思う。
「役者」としての未熟さを自分の経験値でおぎなったりしながらスタートした舞台。ミュージシャンとしての説得力なんかを全部一旦置いておいて、台詞と演じることに集中することは、とても大きな経験だった。最後に一曲だけその回のテーマソングを歌うシーンが用意されて、それ以外の60分はただ役者としてステージに立つ。
話すことや聞くことという普段得意としている瞬発力と演技はまた違っていて、本当に覚えた台詞を今まさにそう感じて話しているように再現する、あるいは、決まっているのに決まっていない状態でその言葉を選んでいくという、物凄く面倒なことをお芝居では要求されるのだと思う。
演技の面白さと難しさにどんどん出会う5年間だった。
とは言え、僕は最後のところでミュージシャンでもある訳で、その活動が音楽に全く繋がっていなかったらお芝居を続けられなかったかもしれない。
毎回、1時間の物語を後ろ盾とするテーマソングを書かせて貰えたことは、本当に財産だ。
気がつけば4枚のサントラ盤が完成していて、どのアルバムも自信を持って聴いてほしいものになっている。
原田博行という表現者は確実にこのユニットに参加することで豊かになり、育ててもらっていると思う。
このプロジェクトが続いていて、最高に幸せなのは、それを愛してくれるお客さんがいてくださること、そして、関わっている全員が真剣に表現を追いかけてきたからだと思う。
今回も本当に沢山のご来場ありがとうございました。また、夏に会いましょう!!

 

感謝、そしてお詫び

元号が変わる頃、古い友人から、僕のSNS上に今の僕に対する書き込みがあった。彼のその書き込みを巡って、まあまあなプチ炎上が僕の周辺のそこここで起こった。その書き込みは、一方的で断定的で少し乱暴な書き込みだった。

結果、僕のところにも個人的なメッセージがいくつも届き、彼の書き込みのコメント欄にも僕に対するいくつかのエールが書き込まれた。本当に幸せ者だと、自分の事を思う。多くの人に応援され、思い出してもらい、愛されている。

古い友人もまた友情から、僕へのアドバイスを送ってきたのだろう。ただ、友人なのだから、SNS上ではなく、直接メッセージを送ってくれればよかったのにとは思うのだが。まあ、残念に思われている事を残念に思う。

「友達だから、自分のことは棚上げし、無責任でも気づいたことを伝えたい」。そんなことはしょっ中ある。でもそれはプラベートな空間で許される行為だ。自分不在で他者に意見することの怖さを感じた。誰として、誰のために、どこで意見をするかは、きっと重要だ。

投稿を放置した結果、今の僕の表現活動に関わったり、それを大切にしてくれている人たちが、不愉快になり、気分が悪くなってしまうことになってしまった。本当に申し訳ない。

彼のアドバイスに気付きや自戒の念は湧いても、迷いは起こらなかった。それは、誰よりも僕が原田博行と向き合って生きているからであり、僕が原田博行を諦めていないからだ。だって本人だもの(笑)。原田博行と24時間一緒にいるのは僕であり、もがきながら前に進む。前がどこかも疑いながら、でも諦めずに原田博行を続けていく。

それぞれが、本来、自分とそうやって歩んで行くのだと思う。

そう、自分と歩んで行くのだ。

だから「原田と関わる自分」のことなら、僕以上に考えてくれている人も大勢いて、仕事のパートナーになったりする。そんな連中は、瞬間的に僕以上に僕のことを分かってくれているタイミングもあり、的確なアドバイスをもらうことも多い。有難い。そして、その愛すべき人たちのことを僕の方がちゃんと考えていなくて傷つける事も多々ある。横着でデリカシーなしで、いつもすいません(笑)。

自分と歩むことを諦めない者たちとの仕事は最高に楽しい。その連続の中に僕は生きてきた。本当に幸せなことだ。

「大切なのはその日1日を目一杯楽しく過ごすこと」。先日もらったお芝居での僕の役柄が発する言葉だ。でも、それは、本当はストイックな世界だ。怠惰による楽しさには限界があり、虚しさに勝てないからだ。楽しいのはサボっていないからだ。

こんな事を書くと「俺、頑張っています!」と書いているようでカッコ悪いなあ(笑)。

でも、やっぱり頑張って、今の僕が出来る最高のアルバム、最高のハラダイス、最高の表現活動に邁進します。

未来に起こることにワクワクしながら続けます!

感謝とお詫びをかねて。

ボートを漕ぐように(聖書の話44)

わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。

(詩篇32:8)

皆さんも「人生を進むとはボートを漕ぐようなものだ」という話を聞いたことがあるかもしれない。私達は未来へ向かい背中越しに進んでいく。過去が目の前にあり、未来は後ろにある。そう考えると、「三日前」と過去のことを表現し、「三日後」と未来のことを表現することにも納得がいく。

僕は、この例えを、ひどく気に入った。もともと、この話を僕に聞かせてくれたのは僕がまだ20代のころに担当した教育実習生だった。彼が、この例えを使った授業の教案を持ってきたのだ。しかし、その教案の結論はひどく退屈なものだった。「僕らは未来を見ながら進むことができない、だから不安になるのだ。だからこそ、船頭さんとして、イエス様にボートに一緒に乗ってもらいましょう。」
せっかくの興味深い例えが台無しだと僕は思った。ほとんどキリスト教に興味がない高校生に対して、なんて魅力のない結論なのだろうと。

僕がなぜ、この人生への例えを気に入ったのか。それは、この例えに人生の真実があるように思えたからだ。確かに未来は見えない。見えているのは、自分が辿ってきた今までの人生だ。
教案は教育実習生のものなので、「僕の考えとしてはどこが面白くないか」を伝え、彼なりにアレンジを加えて実習は無事に終わったように記憶している。実習は過ぎていったが、この例えがあまりに面白かったので、その後、僕は友人たちと、この例えをもとに話をすることが度々あった。僕以外はクリスチャンではない友人たち。大学を出て数年。社会の中でそれぞれにもがいていた僕らにとって、この例えから各々が感じる人生への思いはなかなか面白いものだった。
ある者は、「僕は自分のボートとオールが描く水面に残る進んだ後の美しさにこだわりたい」つまりは人生の歩み方の美しさに興味があると言う。また、別の者は「僕はスピードが大事だ」と言う。「いやいや、目的地の設定だろう」という者も。そんな中、「私は、あっという間に激流の上に乗っけられてここまで来たから、あまり自分でボートを漕がなかった」という友達もいた。若くしてメジャーデビューして、それなりに世間の脚光を浴びたボーカリスト。彼女はどれくらいのスピードで自分のボートが進んでいれば、人々はそのことに注目してくれるかをよく知っていたけれど、自分でボートを漕ぐ喜びにはしばらく出会っていないようだった。
僕は、進むべき方向へ一生懸命ボートを漕ぐことが人生を豊かにするのではないかという仮説を立てて見た。これは、賛否両論。極めてクリスチャン的だという批判も。「真実ありき、正解ありき」で考える時、ゴールを探す面白さ、結論が分からない面白さが奪われてしまうという感じだ。僕らは若く、まだまだ人生を模索していて、同時に自信に満ちていた。結果的に同じところをぐるぐる回っているだけだとしても、そんなに虚しいとは思わないという意見も出た。行きたいときに行きたいところへ行く、その自由が欲しいという友達も。
結果、僕らが、全員一致で大切だと考えたことは、「まずはボート漕ぐ楽しさを知ること」だった。そして、これこそが、若き日にまずは獲得して欲しい感覚だということになった。話の発端が高校生への授業教案だったので、どんなメッセージが高校生へ一番必要かを僕らなりに考えていたのだろう。そこから先の生き方へのこだわりが本当にそれぞれに違うということも僕らなりに感じた時期でもあった。

学校というのは、失敗したり危ない目にあっても大丈夫なように、学生を一生懸命守ってくれる。その環境の中で、見えない未来に向かって、全力で漕いでみる。失敗もするし、色々痛い目もみるだろう。でも、一生懸命漕いだ時に得られる喜びにも出会えると思う。その成功体験を原動力に、実際の社会に出て、自分の責任の中で、しんどくても喜びをもってボートを漕ぐことができるようになるのだと思う。
不安を感じるのはそれからで十分だ。教育実習生が言ったように、イエス様に一緒に乗ってもらうことでしか、乗り越えられない大変な未来もやってくるかもしれない。でも、その前に、まずは、自分でボートを漕ぐ喜びに出会って欲しいと思う。

今日の聖句をもう一度読んで見よう。
「わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」
確かに、神様という優秀な船頭さんが、いつでも、あなたを見守ってくれていることを約束してくれている。けれど、同時に、自分の足で歩くこと、自分の意思で進むことを前提として、それを見守り助けるという約束であるようにも思える。

あれから随分と時間が経った。これを読んでくれる人がどのような状況に置かれているかを僕は知らない。一つ言えることは、今、その助けが必要な人がいるなら、「神様助けてください、進む道を示して下さい」と勇気を出して祈ってみることだ。行き先が分からなくなり、進むことが怖くなった時、神様にすがれば、必ず助けてくれる。聖書はそのことを約束している。だから大丈夫。

本当はいつだって、自分の精一杯の力で、まずは自分のボートを漕ぐことが大切なのではないかと思う。スピードが遅くても、漕ぎ方が下手でもかまわない。神様にすがるのは「代わりに漕いでもらうため」ではない。自分のボートを自分の力で進める力をもらうためなのだと思う。

新年度だ!

4月になった。というか、もう4日も経ったのか。
先週の土曜日に、ラジオの公開録音があって、2日の日に太秦映画村で楽曲を提供したアイドルのお披露目があって、バタバタと新年度が始まってしまった。

随分と2月から忙しくライブも遠方が多かったので、すっかり忘れていたけど、来週から授業が始まるらしい。
そうなのだ、高校の教師の仕事もしていたのだ!(笑)。
ちょっと気を引き締めてリハビリに努めないと、教室で変な感じになるな。
毎年、4月は全く知らない学生たちと初対面で、一年の関係の出だしなので、緊張する。そろそろ気分をそちらにも持っていかないとね。

とは言え、表現活動もなかなか忙しい。
おかげさまでラジオは4月から1時間番組になって土曜の5時からに。
https://www.kbs-kyoto.co.jp/radio/500/
そして、今月の終わりにはお芝居の舞台が。
https://www.facebook.com/events/426768424805466/?notif_t=plan_user_associated&notif_id=1554353655191624
5月には京都町内会バンドのライブが。
https://www.obu.to/2019/02/16/2019-05-18-_sat-
https://www.obu.to/2019/02/16/2019-05-19-_sun-

ハラダイスのためのアルバムのレコーディングも近い。

うん、なんという幸せ。

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さあ、サボらず楽しんで、焦らず急いで、今年度も頑張りますか!!
今日は、これから魔法にかかったロバで「ぼんやりハラダイス」。カウンターでぼんやりします。19時から22時です。

今日の写真は懐かしいこの一枚で(笑)。

ひと時の混乱(聖書の話43)

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

(ルカによる福音書 12:49)

 

今日の聖句はイエス様の言葉だが、少し意外に感じる人も多いのかもしれない。「地上に火を投じる」とは随分恐ろしい言葉だ。争いや分裂、ひどい場合には戦争をイメージしてしまう。

イエス様の意外性に出会った気がして選んでみた。イエス様は争いを止め、戦争を否定する人ではないのか?と思いながら、この聖句に出会い、この聖句の意味やメッセージをしっかり学んでみようと考えたのだ。

まずは、イエス様の生涯を少し振り返ってみようと思う。

今から2000年と少し前、ユダヤの民の中にイエス様は生まれる。当時のユダヤの民は、その民族の歴史の中で語られていた「救世主による王国が築かれること」を待ち望んでいた。エルサレムから御言葉が出るとイザヤ書の2章にあるように、救世主はエルサレムから登場して、自分たちを政治的にも経済的にも救ってくれると期待し、信じていた。
その時代背景の中で、イエス様は、救世主としての期待を集めることになる。イエス様自身も、人々を救うことをその生涯のテーマにされていた。救世主としての人生を進むイエス様が、その行いによって注目を集め、当時の人々に期待を持って受け入れられたことは想像に易い。時の権力者が恐れるほどに民衆はイエス様の言葉に心を動かされたのだ。

当時、人々を教え導く役割を担っていた律法学者たちは、神の裁きの恐怖を煽り、律法を守ることを一番大切だと教えていた。そんな律法学者たちの考えに真っ向から異論を唱え、律法をただ守ることが大切なのではなく、「愛する」という行為こそが大切であり、その行為によって私たちは神に喜ばれる存在となり、救われるのだと教えたイエス様。当時の人々はその教えに新しさと希望を感じたのだと思う。
救いを求めていた人たちにとって、イエス様が語られる言葉は新鮮で、今まで想像もしなかった考え方には刺激と発見がたくさんあったのだと思う。聖書を読んでいると、一時のイエス様は、大人気のロックスターのようだ。いく先々で民衆に囲まれ、見つけられると群衆が押し寄せ、すぐに囲まれてしまうと言った感じだ。
しかし、皆さんもご存知のように、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて殺されてしまう。人々がイエス様を受け入れ、熱狂する時間はそんなに長くはなかった。

民衆の前で、自分たちの教えを否定された律法学者たちや、人々の心を動かすイエス様に恐怖を感じた権力者たちによって、次第にイエス様に対するネガティブキャンペーンがはられ、結局はでっち上げの裁判で、イエス様は十字架につけられてしまう。

イエス様に一時はついて行こうとしたけれど、イエス様は自分たちを経済的に救ってくれる訳ではないと気付いた人たちの失望や、政治的な成功を期待してついていったのに、どうもそういうことではないと感じた人たちの失望も、イエス様を十字架につけて殺してしまう考えを後押しすることになる。
「なんだ、生活が楽になる訳ではないのか」とか、「あれ?今度の選挙(当時の政治家の選出は選挙ではないと思うけれど)でも立候補しないのか。王様になる人ではないのか」と言った感じかもしれない。

私たちは、この世的な成功に目を奪われがちだ。そして、自分の生活を、特に経済的に豊かにしてくれるものに簡単になびいてしまう。景気さえいいなら、少しくらい不正があってもまあいいじゃないか、と言った具合だ。
今の日本を見渡しても、そのことを感じることは多いし、自分の生き方の中にも常に、その声は聞こえてくる。「成功したいなら」「勝ち組になりたいなら」「お金が必要なら」と囁かれることが度々だ。
まあ、ミュージシャンとして僕があんまり売れてないのは、そういう囁きを強い意志で排除してきたからではなく、単に、才能とか努力がまだ足りていないのだけれど、それでも、そんな誘惑を感じない訳ではない。そして、その誘惑に身をまかせると、往往にして虚しい結末が待っていることも少し知っている。

しかし、イエス様は、そんなこの世的な成功にはまったく興味を示されない。多くの群衆が期待していても、経済的成功や政治的権力を手にすることに目を向けられない。救世主とはこの世的な成功の中に存在するものではない、とはっきり語られる。最初は、「謙遜しておられるだけだろう」とか「いや、でも時代がイエス様をほっておかない、このままでは終わらないだろう」なんて思っていた周囲の人たちも、だんだん「これは本当に期待はずれかも」と思うようになっていったのかもしれない。今日の聖書箇所は、ちょうど、そのイエス様の「本当にしようとされていること」が語られ始める時期にあると言っていい。人々の期待と、イエス様が語っておられることとのズレが明確になっていく時期と言ったところだろうか。いや、イエス様の側も、この世がどのような状態かが分かり、自分のこの世での役割について、どんどんイメージが明確になっていた頃なのかもしれない。

私たちは、イエス様の生きた時代から2000年以上の時間がどのように流れたかを既に知っている。しかし、この時、イエス様はまだその未来を知らない訳だ。

聖書を学んでいくと、イエス様が、自分のこの世での生涯がどのような意味で与えられたかを見極め、覚悟を決めて行かれるシーンに時々出会う。人間として、死の苦しみも痛みも感じながら十字架で殺されることを受け入れる覚悟は並大抵のものではなかっただろう。

旧約聖書の中に出てくる預言者の言葉を学び、自分が救世主としてこの世に生まれたことを予感しながら、人々を救うために何をしなければならないかを常に考えておられたように思う。
おそらく、自分は生贄として殺されることになるだろうと気付いた時、ものすごく辛かったり、苦しかったり、嫌だったりしたのかもしれないなと思うのだ。

十字架に磔にされた後、イエス様は復活をして、多くの弟子たちの前に現れ、語られる。復活の後のイエス様は、どこか穏やかで自由だ。そして、優しい感じがする。
しかし、その穏やかな時間はまだ訪れていない。イエス様自身も必死で生きておられる真っ只中で今日の聖句は語られているのだ。

ユダヤ教の考え方の中にある「来臨」、つまり救世主がやってきて、この世を治めてくれるという考え方の中で民衆の期待を集めたイエス様は、その期待に答えず、十字架に死に、そして復活していつか再び来ることを約束して天に上げられる。
インターネットを調べていたら、僕がかつて英語を教えてもらった市川喜一先生のページにたどり着いた。
市川先生曰く「われわれの信仰は終末的である。その内容を具体的に言えば、われわれはキリストの再臨を信じ待ち望んでいる。われわれの罪のために十字架の上に死なれたキリストは、三日目に復活して天に上げられ、やがて栄光の中に再び来られると、われわれは新約聖書の証人たちと共に信じている。」
再臨信仰というのだろうか。

ルカによる福音書の今日の箇所までを読んでいると、その再臨の時の準備をしなさいという話がたくさん出てくることに気づく。どこかへ出かけていた主人が帰ってくるまでに何をしておかなければならないか、といった例え話が見受けられる。
再臨に備えて「目を覚まし・ともし火をともし・腰に帯を締め・良き管理人となれ」という感じだ。
しかし、今日の聖句は、再臨ではなく初臨、今回のイエス様のこの世への到来において、イエス様が何をしにきたかを語っておられる。この世の現状の中で、イエス様のメッセージを民衆が正しく受け取るなら、どのような状態が待っているかを悟り、ご自分がこの世に来られた意味を語っておられるのだ。

今日の聖句をもう一度読んでみよう。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

ある注解書に、「主の願いは、再臨の日がもう既に来ていることでした。それが、『火が既に燃えていたらと…』です」とあった。そうか、と思った。イエス様も、その時代に生きて、その時代の状況を初めて知る訳だ。だんだんと人々が何を望み、何に心を奪われているかを知る訳なのだ。
イエス様が気がついていた大切なことを、イエス様が語られる言葉を、人々が受け入れられないことをまざまざと見せつけられる中で、この言葉は語られているのだと思う。「私の語ることを、この時代の中で受け入れるなら、ひと時の混乱は免れない」と、イエス様は感じられたのではないかと思うのだ。
では、イエス様は何を語られ、何を私たちに伝えられたのだろうか。
イエス様が語られたことは、最初からずっと「一生懸命愛しなさい」ということだけだったのだなと思う。愛せない自分を悔い改めなさい。私が、あなた達の足りない部分を補って、愛せるように支えるから頑張りなさい。そのことだけを伝え、ただただ、当時の弱者達のところへ赴いて、励まし、愛された生涯だったように思う。
そして、それはとても厳しい人生なのだと、イエス様は度々説明をしている。「愛する」という行為を命がけで行うときに、そこには争いが生まれてしまうことがあるのだと。そのひと時の混乱の先にしか、本当に愛が実現した世界はないのだと。

火は争いと共に浄化を意味する言葉だと註解書にあった。利権にまみれて、正しさなど失われてしまった世界で、正しくあることを主張すれば、当然揉め事が起こる。事なかれ主義で見えないふりをしている方が、うまくいくことの方がほとんどだ。
イエス様はそのことに妥協をしない。人々が見捨ててしまった弱者を愛し、本当に反省しているなら、一見、律法を覆してでも、その人を赦し、守ろうとする。
少しでも火が燃えていたなら、イエス様の到来を民衆は受け入れることができただろう。しかし、火をつけるところから始めなければならないところまで、世界は荒み、人々は罪に身を任せていた。世界を救うためには、正しさの火をともさなければならない。それは、この時代にとっては揉め事の種となる。それでも、その役割を自分は全うするのだ。その決意が、この聖句の中に垣間見れる。

争いの結果として最悪なことは、死者が出てしまうことだ。イエス様は、全ての人の身代わりとなってその最悪の死者になってしまう。
愛することが一番大切だ。けれど、律法に定められた罪を償うことも決して軽んじてはならない。たくさんの罪人の罪を「赦す」と宣言されるイエス様は、その罪を担って自分が十字架につくことを覚悟されているのだ。その十字架への人生の決意の中で、この言葉は語られている。「最悪の結果だけは、私がなんとかする。しかし、それぞれに、それぞれの人生を戦って欲しい。愛のもとに戦って欲しい。」そういう思いが今日の聖句には感じ取れる。

今日、私たちは、この聖句を聞いた。
本当はいうべき言葉を飲み込んでしまってはいないだろうか。誰かにムッとされることを恐れて、弱いものが犠牲になることをそのままにしてはいないだろうか。利害を求めて正しくあることを諦めてはいないだろうか。それぞれに、自分に問いかけてみて欲しい。
怖くて身動きが取れないのは当たり前だ。処世術なら決して進めてはこない選択を迫られている気分になるかもしれない。
でも、神様がいてくださるなら、その争いはひと時の混乱であり、その先には本当の平和が待っているはずだ。そのことを信じて勇気を振り絞れる人でありたいと思った。

実は、一旦、この説教はここで終わりだったのだが、書き上げた後、多くの友人たちにこの話を聞いてもらい、特にクリスチャンではない人たちの意見を聞く機会に恵まれた。そこから感じたり発見したことを少し付け加えようと思う。

感想として上がった最初の質問は「ひと時の混乱」の先にある「本当の平和」とは何ですか?というものだった。そして、「言わなければならないこと」とはどんなことですか?という質問。
全ての言わなければならないことは、それぞれの利害から出ているように思う、とある友人が言う。「良心のようなものが言わせる、利害を超えたものがあるのでは?」と聞くと、「その良心も時代や場所あるいは国によって違う価値観になってはいないか」「突き詰めたところでは、どこか利害によってその感情は生まれているのではないか」という訳だ。

相対的な事柄しかこの世界にはないのか、それとも絶対的なものがあるのか、という問いは非常に大切だと思う。
神様という絶対的な存在があり、その神様が示す道は絶対的だ、という価値観の中で、今日の説教は語られている。そこには正しい答えが存在し、自分にとって不利益になることでも、その正しさを求めることに意味があるという考え方が成立する。
しかし、全てが相対的だとすると、「争いを招いてでも言うべきこと」などないと言う考えになってしまうのもよくわかる。自分だけが我慢すれば、揉め事にならない、と言う訳だ。

「どうして絶対的なものがあると言えるのですか?」
何度も繰り返されて来た問いである。絶対的なものの絶対性を論理的に証明することはできない。神様がいると証明することはできないのだ。そこには信仰があるのみだ。信じること、聖書に学ぶこと、教会に来ること、そして、信じた先で行動を起こしてみることによって、つまり、信仰生活を送ることで、自分の信じた事柄が真実であることを確信するようになる。でもそれは論理的証明ではない。実践と経験による主観的告白だ。

神様に聞き従う訓練を繰り返す信仰生活によって、ひと時の混乱の先に訪れる奇跡のような穏やかな日々を信じられるようになるのだと思うのだ。
それは、イエス様が十字架の後に復活して、いつか再臨してくださると言う未来をも信じさせてくれる信仰でもある。

もう一つ、大きな質問があった。
「言うべきこと」「するべきこと」とは具体的には一体何ですか?その正しさは何よって判断するのですか?この話を聞いた人は、その後、どう動けばいいのですか?と言うもの。

それぞれに具体的にどんなイメージがあるか、どんな体験があるか、などを聞いてみた。色々と話し合ったのだが、結果として「そこに愛があるか」が一つのバロメーターかもしれないと言うことになった。随分とふわっとしたバロメーターだが、クリスチャンではない友人たちも「愛があるか」と言う言葉には比較的イメージが湧くとのこと。これもまた人それぞれで、なかなか難しい。

それでも、その決断が愛による決断かどうかを、いつも問いかけてみることでわかることもあるように思う。ひと時の混乱を招くとしても、相手に対する愛からその混乱が起こっているなら、その未来は明るいのではないかと思うのだ。
もちろん、それもかなり勇気のいることだ。こうする方が愛があるとわかっていてもなかなか動けない。愛したくても愛せないのが私たちだ。その弱さを補うために、イエス様この世に来られた。愛せない私たちを赦し応援してくれる。

「神様、守ってください。神様、支えてください」そう祈ることは全員に与えられている権利だ。信じていなくても、心を沈めて祈ってみることだ。必ず何かが変わってくる。私たちの心の中に、弱々しくとも、火が燃えていることをイエス様は願っておられる。
その願いに応えたいものだ。