手とハート マタイによ福音書 9章18節~26節(手とハート)(聖書の話23)

イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄ってきて、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起きあがった。このうわさはその地方一帯に広まった。

(マタイによ福音書 9章18節~26節)

2014年、ハラダイス・ライブのテーマは「手とハート」だった。テーマが決まると同名タイトルの曲を書く。そして、そのテーマと向き合いながらライブまでの日々が進む訳だ。ちょうどその頃、礼拝のお話の依頼を機に、聖書の中に「手とハート」を探しに行ってみたことがある。
すぐに思い出したのは「出血が続いている女」のエピソードだった。一種の婦人病であり、汚れた病気と理解されていた病いに長い間苦しめられていた女性の話だ。
僕の記憶の通り、聖句には手にまつわる言葉がたくさん出てきた。「手を置いてやってください」「イエスの服の房に触れた」「触れさえすれば治してもらえる」「少女の手をお取りになった」
二つの物語が同時進行している今回の聖句。一つは、娘が死んでしまった指導者の物語、そして、もう一つは僕が思い当たった、十二年間も病に苦しめられている女性の物語だ。登場人物の二人は、どちらも、本当の絶望の中からイエス様に近づいて来ている。そして、触れてもらう事と触れる事でその絶望から救われるのだ。
奇跡は触れるという行動と、その行動を促した心、ハートが揃った時に起こったのだということを発見して、「手とハート」という言葉が、ますます好きになったのを思い出す。もちろん、僕の歌にはイエス様のような力はない。見捨てられた人々に振り向いて、あるいは、ついて行って、希望を与える。「死」という滅びの絶望にさえ打ち勝つイエスの「手とハート」には遠く及ばない。それでも、小さな希望を生む決意としてこの歌を歌っていけたらいいなと思う。

「手とハート」

歌声に手を叩く  雨上がりの青空
坂道を駆け上がり ハートはいつか一つに

伸ばした手は未来に 繋がる虹をかけて
さよならと始まりを ハートに映し出してる

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
自然な気持ちは止められないさ

手とハートで  手とハートで  手とハートで  手とハートで

結んだ手は確かに  言葉よりも確かに
勇気と希望を生み ハートを奮い立たせる

手作りの会場も 手を振る君の顔も
夕焼けに染められて ハートに刻まれていく

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
不自然になっても構わないさ

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
自然な気持ちは止められないさ

手とハートで  手とハートで  手とハートで  手とハートで