「赦し」という大逆転 ヨハネによる福音書 8章1節~11節(聖書の話21)

「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

ヨハネによる福音書、8章1節~11節

今回の物語は民衆に受け入れられ始めたイエス様を邪魔に感じている「律法学者たちやファリサイ派」というエリート集団の思惑の中で進められます。エリート集団は姦淫の罪を犯した女性の処遇をイエス様に尋ねます。もちろん悪意のある質問です。考えられるイエス様の答えは二つ。一つは「それならば死刑だ。皆で石打ちの刑に処せばいい」、もう一つは「その女を殺してはいけない」。
死刑を勧めた場合、イエス様の教えに集まった民衆はがっかりする。かたや、女を殺してはいけないとはっきり言ってしまうと、それは法律違反であり、イエス様を訴えることが可能になります。しかし、イエス様はそのどちらも口にはしません。かがみ込んで地面に何かを書き始めるのです。 授業で高校生にその動きについて、イエスの気持ちを予想してもらうと、「困っている」「いじけた」「法律を思い出している」「トンチがひらめくのを待っている」など、予想もしない答えが返ってきます。
このことに関する、加藤常昭先生の注解は見事です。「神も主イエスも私どもが声をかけても返事をなさらない時があると言うことを知らなければならない。」と先生は書いています。また、「私どもの祈りは答えられない時がある。私どもの問いかけは無視される時がある」とも。
つまり、イエス様は沈黙を持って、問いかける者に明確に答えているということになります。イエス様の側には、最初から迷いなどない。恐れているわけでも、いじけているわけでも、困っているわけでもない。答えるに値しないことだと無視し、対話を拒否しているのだと。 私は、祈りの中で「神様どうしてお答えにならないのですか」「なぜ、黙ったままなのですか」という問いを何回も発した経験があります。この問いは、特に自分が勝手に答えを用意して、神様に同意して欲しい時によく起こるように思います。ところが沈黙です。これはなかなかまずい展開です。本当に落ち着いて、自分のエゴを捨てて、耳を傾けると、耳の痛い答えが返ってくるパターンです。
今回のイエス様の答えは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というものでした。予想された二つの答えではない、まさに耳の痛い答えです。

さて、私たちはこの場所にいたら石を投げるでしょうか。授業でその質問をすると、ほとんどの生徒は投げないと答えます。でもそうでしょうか。「僕は投げると思う」と私が言うと、少し意外そうな表情を生徒たちはします。私は、この場所にいたら石を投げたと思います。ただし、条件があって、誰か一人が最初に投げてくれたらです。誰か一人が石を投げたら、私も夢中で投げただろうと思うのです。合法的に人を殺せることに夢中になり、この街から悪を追放している正義に酔いしれて、投げただろうと思うのです。だって、法律で彼女は間違いなく死刑なのですから。イエス様が、「この街に罪を残しておいてはいけない、全員で、この人を裁こう」と力強く叫ばれたらなおのことです。「それはおかしい!」とは絶対に言わなかった、あるいは、言えなかったと思うのです。
この聖句において、自分を民衆の中に置いて読む時、私たちは、石を持って投げようとしている時にイエス様の言葉を聞いたと想像するべきだと思います。親子でその場所に来ていた人もいたかもしれません。「さあ、おやじ、一緒に投げよう!」と父を見たら、父が石を置いて帰っていく姿を息子は見たかもしれない。そして、我に返って、自分も石を置いてその場所を後にしたのでしょう。そういうギリギリのところで石は投げられなかったのだと思うのです。もし、無知な子どもが一つ目の石を投げたら、全員が一斉に石を投げたかもしれない緊張の中で、イエス様の言葉が響いて、奇跡的に一つ目の石は投げられることが無かったのだと思うのです。
とにかく石は投げられませんでした。そして、全ての人が帰っていきました。最後に残ったのは女とイエス様です。
実は、誰もいなくなった時、女は、背中を向けているイエス様に気付かれないように逃げてしまうことが出来たと思います。しかし、女は逃げませんでした。彼女は待っていました。石打ちの刑で殺される寸前にそれが中止になりそうなその状態の中で、最後のイエス様の言葉をただ待っていたのです。なぜ、彼女は逃げなかったのでしょう。なぜ、逃げることを思いつかなかったのでしょう。それは、おそらく、彼女が自分の死刑を受け入れていたからなのだと学んでいく中で気がつきました。自分の犯した罪で石打ちの刑に処せられることを彼女は覚悟していた。そして、最後の一人となったイエス様が自分にどのような態度をとり、どのような言葉を投げ掛けるのかを静かに待っていたのだと思うのです。
イエス様の言葉は彼女にとって意外だっただろうと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
なぜイエス様は彼女を赦したのでしょう。イエス様も自分に罪があるから石を投げなかったのでしょうか。もしそうなら、この話は聖書に載せる価値がまったくない物語だと私は思います。「自分も含め、みんな悪いことをするものだから、赦しあいましょう」そんなことをこの聖句は伝えているのではありません。
最後のイエス様の言葉を聞いたのは女だけということになります。つまり、この経験をした女自身が、後、イエス様との出来事をキリスト教が形成されていく集団の中で話したということでしょう。彼女は、「もう罪を犯してはならない」というイエス様の教えを守った。守っただけでなく、その言葉の意味を深いところで理解し、キリスト教徒となっていったのだと思うのです。
自分の罪は死刑に値するということを受け入れていた彼女は、どのような意味でイエス様が自分を赦したのかをその日には理解しなかったでしょう。しかし、しばらくして、イエス様が十字架につけられて殺されるという事実を知ることになります。無実の罪によって十字架につけられたイエス様の死を彼女ははっきりと自分の身代わりとしての死だと感じたのだと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。」と言うイエス様の言葉の後ろに、「私があなたの代わりに十字架につくから、心配しないでいい」という意味が隠されていたことに、彼女は気がついたのです。だから、自分の経験したことを語り続けたのではないでしょうか。そして、聖書にこの物語は書き加えられたのだと思うのです。

罪の裁きは、なし崩し的にごまかされた訳ではなかった。その裁きはイエス様の十字架によって確かに行われ、償われた。そのことを見逃してはいけません。
イエス様が罪を赦す人々は、本当に心から自分の罪を認めている人々です。誰もいなくなった逃げることが可能な状況の中で、罪を認め、最後の一人であるイエス様に、石で打ち殺される覚悟をしていたからこそ、女は赦されたのです。そして、二度と罪を犯さなかったのだと思います。彼女はイエス様に赦されて生まれ変わった。復活をした。絶望と悔いの終点で希望の大逆転が起こったのだと思うのです。
イエス様によって体験する大逆転。その大逆転は、私たち一人一人に与えられている希望なのだと思います。この物語のどこに自分を発見するか。罪を犯さずには生きていけない私たちは女の中にこそ自分を見出すべきなのかもしれません。