君は愛されるため生まれた ヨハネの手紙 1 4章7節(きみは愛されるため生まれた)(聖書の話20)

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」

(ヨハネの手紙 一 4章7節)

今日の聖句は、ある意味キリスト教そのものを示す言葉ではないかと僕は思う。「愛」こそが、イエス様が伝えようとしたことの全てだと思うからだ。
イエス様が無実の罪で十字架にかかり、死ぬ事で、この世界に残したものは、「罪の赦し」だった。そこにはユダヤ教の宗教観が大きく関わっている。罪を赦すのは神様であり、赦される方法は神様への生け贄だという価値観。生け贄を神様に捧げる習慣や価値観がない日本に住む私たちにとって、キリスト教が伝えようとする愛を理解するのは難しいかもしれない。しかし、少し無理をして、その価値観をイメージしながらイエス様の生涯を学ぶと、キリスト教の伝えようとしている愛が分かってくる。それは、私たちが人生で罪を犯してしまった時、その罪を全て赦して、もう一度人生を歩むチャンスが、イエス様の十字架によって既に全ての人に与えられているという愛だ。

「不気味だな」と思う人も多いかもしれないなあと思う。2000年も前に十字架で死んだ青年の死が、自分の罪を赦すための生け贄だったと信じて、救われたと喜ぶ感覚に違和感を覚える人は多いだろう。「ほら、神様が私たちを愛してくれている!」と言われても、「うーん」という感じかもしれない。

今日の聖句は、その愛を実感する方法を伝えている。私たちに与えられている神様からの愛は、多くの場合、人を介して私たちのもとにやってくると僕は思う。私たちは、心から信頼できる友達に、生涯を共に歩むパートナーに、そして、愛して止まない自分の子どもに生涯の中で出会う。それは、無条件で愛してしまうほど愛おしい存在であり、不十分で、不完全であったとしても、「愛する」喜びを私たちは経験する。それは確かな事だ。
少しでも愛せたとき、そこには「幸せ」がある。そして、「愛する」こと「愛せる」ことは、「愛されている」ことに確信を与えてくれる。
愛するという実践の中で、神様が、愛し合う私たちを支えていることを知ることができる、と今日の聖句は言う。互いに愛し合えたとき、私たちが愛しあえるのは、神様に愛されたからだ、ということに気がつけると言うのだ。
神様は、私たちを愛して、この世に送り出して下さっている。どんなことが起こっても、絶望しないように愛を注いでいてくださる。不確かで疑いたくなる日もあるだろう。しかし、同時に、その言葉の力強さに魅力を感じ、励まされるのも事実だ。

今回は韓国で作られて、日本でも訳されて、広く歌われるようになった「きみは愛されるためうまれた」という曲の歌詞を紹介しようと思う。僕は日本で発売された同名タイトルのアルバムに「原田博行 with SIESTA」として参加して、この歌を歌わせてもらっている。歌う事で、不安は安心にかわり、疑いは信頼へとかわって行くから不思議だ。

「きみは愛されるため生まれた」(作詞、作曲のイ・ミンソプ公認訳)

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ
きみの存在がわたしには どれほどおおきな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている
きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている