さて、イエスは悪魔の誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
(マタイによる福音書 4章1節)
今日の聖句はマタイによる福音書の4章だ。イエス様がその短い生涯の最後の数年間、人々の関心を集めて、たくさんの話をされることになる日々の直前の物語。当時、世の人々が待ち望んだ救世主かもしれないと注目していた洗礼者ヨハネによって、洗礼を受けられたイエス様は、伝道を始める前に、悪魔の誘惑と戦う荒れ野での40日間を過ごされる。私たちがよく礼拝などで話を聞くイエス様は、弟子がいて、神の独り子として、迷いのない姿で描かれている。今日の個所は、そんなイエス様の人となりが完成する最後の仕上げの時間という感じだろうか。
少し、聖書を読んでみよう。イメージをしながら読み進めてもらいたいと思う。
4章1節~4節
最初の誘惑は「石がパンになるように命じたらどうだ」というものだ。イエス様の空腹に付け込んだ誘惑と言える。しかし、ただそれだけの誘惑ではない。イエス様が苦行ともいえる荒れ野での40日の断食を行ったのは、人々を救うためだった。イエス様は自分が世の中を救う役割を神様から与えられているかもしれないことと向き合っていたと言えるだろう。どうすれば、貧しさの中で飢え苦しむ人々を救うことができるか。そこに巧みな誘惑が聞こえてくる。「石をパンに変えればいいではないか!」。この誘惑は、日々、私たちを襲う。政治家なんかになればなおさらだろう。例えば原子力発電も、僕には石をパンに変えようとしている行為に映る。クリーンなエネルギーとして、人々を救うよきものとして、登場してきたのだ。でも、それはパンではなく石だった。自分たちではコントロールできない危険なものだった。善意が「石をパンに変える」という誘惑にとりこまれてしまう。本当に悪魔の誘惑は巧みだ。
続きを読んでみよう。
5節~7節
「二つ目の誘惑は神様に守られていることを確かめるために神様を試してみてはどうか」という誘惑だ。この誘惑に関しては、その誘惑の方法に興味をそそられる。ダブルカギカッコで示されている言葉は、実は旧約聖書の中にある、神の言葉だ。そうなのだ、イエス様はすべての誘惑に聖書のことばで打ち勝っていくのだが、ここで、悪魔も聖書の言葉を引用してくるのだ。これもまた日常的な誘惑の方法だ。「~したらあかんにゃで」という正しい意見に「え?先生してもいいっていってはったで」というさりげない権威の利用。そこには巧みなすり替えが起こっているのだが、ついついその誘惑に乗ってしまうことがしばしばある。
最後の誘惑を見てみよう。
8節~11節
「私を拝めばすべてを与える」というシンプルな誘惑だ。同じ内容の記事がルカによる福音書の4章にもあるのだが、そこでの悪魔のセリフは秀逸だ。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
実際に悪魔がこの世を支配しているとも言える。ほとんど同じ誘惑で、芸能界やハリウッドでのセクハラ問題などは行われてきたのだろう。けれど、やっぱり悪魔の支配は見せかけであり、そこには本当の幸せや成功はないように思う。
3つの誘惑をイエス様は聖書の言葉だけで退ける。イエス様が世界を救いたいという自分の思いを自分の考えだけで行おうとしたら、悪魔の誘惑にはうち勝てなかったかもしれない。誘惑を打ち砕く正しい答えは言い訳がなく、シンプルなものだ。ただ、神様を見つめるという一本道を歩いていけばいいだけなのだとイエス様の答えは教えてくる。
私たちにも、日々、悪魔の誘惑が襲ってくる。善意につけこみ、権威を振りかざし、さもこちらの意図を汲んでいるかのようなふりで近づいてくる。キリスト教を信仰していない、神様を信じていない人がほとんどかもしれないけれど、例えば「良心に従う」という表現なら悪魔との戦い方が見えてくるかもしれない。落ち着いて考えれば、打ち勝つべき答えはシンプルですでに自分の中にある、分かっていることばかりなのかもしれない。
悪魔は私たちの日常に存在する。そう思う。その誘惑に打ち勝つ、謙虚さや良心を磨く努力をしていきたいものだ。