ひと時の混乱 ルカによる福音書 12章49節(聖書の話43)

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

(ルカによる福音書 12:49)

 

今日の聖句はイエス様の言葉だが、少し意外に感じる人も多いのかもしれない。「地上に火を投じる」とは随分恐ろしい言葉だ。争いや分裂、ひどい場合には戦争をイメージしてしまう。

イエス様の意外性に出会った気がして選んでみた。イエス様は争いを止め、戦争を否定する人ではないのか?と思いながら、この聖句に出会い、この聖句の意味やメッセージをしっかり学んでみようと考えたのだ。

まずは、イエス様の生涯を少し振り返ってみようと思う。

今から2000年と少し前、ユダヤの民の中にイエス様は生まれる。当時のユダヤの民は、その民族の歴史の中で語られていた「救世主による王国が築かれること」を待ち望んでいた。エルサレムから御言葉が出るとイザヤ書の2章にあるように、救世主はエルサレムから登場して、自分たちを政治的にも経済的にも救ってくれると期待し、信じていた。
その時代背景の中で、イエス様は、救世主としての期待を集めることになる。イエス様自身も、人々を救うことをその生涯のテーマにされていた。救世主としての人生を進むイエス様が、その行いによって注目を集め、当時の人々に期待を持って受け入れられたことは想像に易い。時の権力者が恐れるほどに民衆はイエス様の言葉に心を動かされたのだ。

当時、人々を教え導く役割を担っていた律法学者たちは、神の裁きの恐怖を煽り、律法を守ることを一番大切だと教えていた。そんな律法学者たちの考えに真っ向から異論を唱え、律法をただ守ることが大切なのではなく、「愛する」という行為こそが大切であり、その行為によって私たちは神に喜ばれる存在となり、救われるのだと教えたイエス様。当時の人々はその教えに新しさと希望を感じたのだと思う。
救いを求めていた人たちにとって、イエス様が語られる言葉は新鮮で、今まで想像もしなかった考え方には刺激と発見がたくさんあったのだと思う。聖書を読んでいると、一時のイエス様は、大人気のロックスターのようだ。いく先々で民衆に囲まれ、見つけられると群衆が押し寄せ、すぐに囲まれてしまうと言った感じだ。
しかし、皆さんもご存知のように、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて殺されてしまう。人々がイエス様を受け入れ、熱狂する時間はそんなに長くはなかった。

民衆の前で、自分たちの教えを否定された律法学者たちや、人々の心を動かすイエス様に恐怖を感じた権力者たちによって、次第にイエス様に対するネガティブキャンペーンがはられ、結局はでっち上げの裁判で、イエス様は十字架につけられてしまう。

イエス様に一時はついて行こうとしたけれど、イエス様は自分たちを経済的に救ってくれる訳ではないと気付いた人たちの失望や、政治的な成功を期待してついていったのに、どうもそういうことではないと感じた人たちの失望も、イエス様を十字架につけて殺してしまう考えを後押しすることになる。
「なんだ、生活が楽になる訳ではないのか」とか、「あれ?今度の選挙(当時の政治家の選出は選挙ではないと思うけれど)でも立候補しないのか。王様になる人ではないのか」と言った感じかもしれない。

私たちは、この世的な成功に目を奪われがちだ。そして、自分の生活を、特に経済的に豊かにしてくれるものに簡単になびいてしまう。景気さえいいなら、少しくらい不正があってもまあいいじゃないか、と言った具合だ。
今の日本を見渡しても、そのことを感じることは多いし、自分の生き方の中にも常に、その声は聞こえてくる。「成功したいなら」「勝ち組になりたいなら」「お金が必要なら」と囁かれることが度々だ。
まあ、ミュージシャンとして僕があんまり売れてないのは、そういう囁きを強い意志で排除してきたからではなく、単に、才能とか努力がまだ足りていないのだけれど、それでも、そんな誘惑を感じない訳ではない。そして、その誘惑に身をまかせると、往往にして虚しい結末が待っていることも少し知っている。

しかし、イエス様は、そんなこの世的な成功にはまったく興味を示されない。多くの群衆が期待していても、経済的成功や政治的権力を手にすることに目を向けられない。救世主とはこの世的な成功の中に存在するものではない、とはっきり語られる。最初は、「謙遜しておられるだけだろう」とか「いや、でも時代がイエス様をほっておかない、このままでは終わらないだろう」なんて思っていた周囲の人たちも、だんだん「これは本当に期待はずれかも」と思うようになっていったのかもしれない。今日の聖書箇所は、ちょうど、そのイエス様の「本当にしようとされていること」が語られ始める時期にあると言っていい。人々の期待と、イエス様が語っておられることとのズレが明確になっていく時期と言ったところだろうか。いや、イエス様の側も、この世がどのような状態かが分かり、自分のこの世での役割について、どんどんイメージが明確になっていた頃なのかもしれない。

私たちは、イエス様の生きた時代から2000年以上の時間がどのように流れたかを既に知っている。しかし、この時、イエス様はまだその未来を知らない訳だ。

聖書を学んでいくと、イエス様が、自分のこの世での生涯がどのような意味で与えられたかを見極め、覚悟を決めて行かれるシーンに時々出会う。人間として、死の苦しみも痛みも感じながら十字架で殺されることを受け入れる覚悟は並大抵のものではなかっただろう。

旧約聖書の中に出てくる預言者の言葉を学び、自分が救世主としてこの世に生まれたことを予感しながら、人々を救うために何をしなければならないかを常に考えておられたように思う。
おそらく、自分は生贄として殺されることになるだろうと気付いた時、ものすごく辛かったり、苦しかったり、嫌だったりしたのかもしれないなと思うのだ。

十字架に磔にされた後、イエス様は復活をして、多くの弟子たちの前に現れ、語られる。復活の後のイエス様は、どこか穏やかで自由だ。そして、優しい感じがする。
しかし、その穏やかな時間はまだ訪れていない。イエス様自身も必死で生きておられる真っ只中で今日の聖句は語られているのだ。

ユダヤ教の考え方の中にある「来臨」、つまり救世主がやってきて、この世を治めてくれるという考え方の中で民衆の期待を集めたイエス様は、その期待に答えず、十字架に死に、そして復活していつか再び来ることを約束して天に上げられる。
インターネットを調べていたら、僕がかつて英語を教えてもらった市川喜一先生のページにたどり着いた。
市川先生曰く「われわれの信仰は終末的である。その内容を具体的に言えば、われわれはキリストの再臨を信じ待ち望んでいる。われわれの罪のために十字架の上に死なれたキリストは、三日目に復活して天に上げられ、やがて栄光の中に再び来られると、われわれは新約聖書の証人たちと共に信じている。」
再臨信仰というのだろうか。

ルカによる福音書の今日の箇所までを読んでいると、その再臨の時の準備をしなさいという話がたくさん出てくることに気づく。どこかへ出かけていた主人が帰ってくるまでに何をしておかなければならないか、といった例え話が見受けられる。
再臨に備えて「目を覚まし・ともし火をともし・腰に帯を締め・良き管理人となれ」という感じだ。
しかし、今日の聖句は、再臨ではなく初臨、今回のイエス様のこの世への到来において、イエス様が何をしにきたかを語っておられる。この世の現状の中で、イエス様のメッセージを民衆が正しく受け取るなら、どのような状態が待っているかを悟り、ご自分がこの世に来られた意味を語っておられるのだ。

今日の聖句をもう一度読んでみよう。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

ある注解書に、「主の願いは、再臨の日がもう既に来ていることでした。それが、『火が既に燃えていたらと…』です」とあった。そうか、と思った。イエス様も、その時代に生きて、その時代の状況を初めて知る訳だ。だんだんと人々が何を望み、何に心を奪われているかを知る訳なのだ。
イエス様が気がついていた大切なことを、イエス様が語られる言葉を、人々が受け入れられないことをまざまざと見せつけられる中で、この言葉は語られているのだと思う。「私の語ることを、この時代の中で受け入れるなら、ひと時の混乱は免れない」と、イエス様は感じられたのではないかと思うのだ。
では、イエス様は何を語られ、何を私たちに伝えられたのだろうか。
イエス様が語られたことは、最初からずっと「一生懸命愛しなさい」ということだけだったのだなと思う。愛せない自分を悔い改めなさい。私が、あなた達の足りない部分を補って、愛せるように支えるから頑張りなさい。そのことだけを伝え、ただただ、当時の弱者達のところへ赴いて、励まし、愛された生涯だったように思う。
そして、それはとても厳しい人生なのだと、イエス様は度々説明をしている。「愛する」という行為を命がけで行うときに、そこには争いが生まれてしまうことがあるのだと。そのひと時の混乱の先にしか、本当に愛が実現した世界はないのだと。

火は争いと共に浄化を意味する言葉だと註解書にあった。利権にまみれて、正しさなど失われてしまった世界で、正しくあることを主張すれば、当然揉め事が起こる。事なかれ主義で見えないふりをしている方が、うまくいくことの方がほとんどだ。
イエス様はそのことに妥協をしない。人々が見捨ててしまった弱者を愛し、本当に反省しているなら、一見、律法を覆してでも、その人を赦し、守ろうとする。
少しでも火が燃えていたなら、イエス様の到来を民衆は受け入れることができただろう。しかし、火をつけるところから始めなければならないところまで、世界は荒み、人々は罪に身を任せていた。世界を救うためには、正しさの火をともさなければならない。それは、この時代にとっては揉め事の種となる。それでも、その役割を自分は全うするのだ。その決意が、この聖句の中に垣間見れる。

争いの結果として最悪なことは、死者が出てしまうことだ。イエス様は、全ての人の身代わりとなってその最悪の死者になってしまう。
愛することが一番大切だ。けれど、律法に定められた罪を償うことも決して軽んじてはならない。たくさんの罪人の罪を「赦す」と宣言されるイエス様は、その罪を担って自分が十字架につくことを覚悟されているのだ。その十字架への人生の決意の中で、この言葉は語られている。「最悪の結果だけは、私がなんとかする。しかし、それぞれに、それぞれの人生を戦って欲しい。愛のもとに戦って欲しい。」そういう思いが今日の聖句には感じ取れる。

今日、私たちは、この聖句を聞いた。
本当はいうべき言葉を飲み込んでしまってはいないだろうか。誰かにムッとされることを恐れて、弱いものが犠牲になることをそのままにしてはいないだろうか。利害を求めて正しくあることを諦めてはいないだろうか。それぞれに、自分に問いかけてみて欲しい。
怖くて身動きが取れないのは当たり前だ。処世術なら決して進めてはこない選択を迫られている気分になるかもしれない。
でも、神様がいてくださるなら、その争いはひと時の混乱であり、その先には本当の平和が待っているはずだ。そのことを信じて勇気を振り絞れる人でありたいと思った。

実は、一旦、この説教はここで終わりだったのだが、書き上げた後、多くの友人たちにこの話を聞いてもらい、特にクリスチャンではない人たちの意見を聞く機会に恵まれた。そこから感じたり発見したことを少し付け加えようと思う。

感想として上がった最初の質問は「ひと時の混乱」の先にある「本当の平和」とは何ですか?というものだった。そして、「言わなければならないこと」とはどんなことですか?という質問。
全ての言わなければならないことは、それぞれの利害から出ているように思う、とある友人が言う。「良心のようなものが言わせる、利害を超えたものがあるのでは?」と聞くと、「その良心も時代や場所あるいは国によって違う価値観になってはいないか」「突き詰めたところでは、どこか利害によってその感情は生まれているのではないか」という訳だ。

相対的な事柄しかこの世界にはないのか、それとも絶対的なものがあるのか、という問いは非常に大切だと思う。
神様という絶対的な存在があり、その神様が示す道は絶対的だ、という価値観の中で、今日の説教は語られている。そこには正しい答えが存在し、自分にとって不利益になることでも、その正しさを求めることに意味があるという考え方が成立する。
しかし、全てが相対的だとすると、「争いを招いてでも言うべきこと」などないと言う考えになってしまうのもよくわかる。自分だけが我慢すれば、揉め事にならない、と言う訳だ。

「どうして絶対的なものがあると言えるのですか?」
何度も繰り返されて来た問いである。絶対的なものの絶対性を論理的に証明することはできない。神様がいると証明することはできないのだ。そこには信仰があるのみだ。信じること、聖書に学ぶこと、教会に来ること、そして、信じた先で行動を起こしてみることによって、つまり、信仰生活を送ることで、自分の信じた事柄が真実であることを確信するようになる。でもそれは論理的証明ではない。実践と経験による主観的告白だ。

神様に聞き従う訓練を繰り返す信仰生活によって、ひと時の混乱の先に訪れる奇跡のような穏やかな日々を信じられるようになるのだと思うのだ。
それは、イエス様が十字架の後に復活して、いつか再臨してくださると言う未来をも信じさせてくれる信仰でもある。

もう一つ、大きな質問があった。
「言うべきこと」「するべきこと」とは具体的には一体何ですか?その正しさは何よって判断するのですか?この話を聞いた人は、その後、どう動けばいいのですか?と言うもの。

それぞれに具体的にどんなイメージがあるか、どんな体験があるか、などを聞いてみた。色々と話し合ったのだが、結果として「そこに愛があるか」が一つのバロメーターかもしれないと言うことになった。随分とふわっとしたバロメーターだが、クリスチャンではない友人たちも「愛があるか」と言う言葉には比較的イメージが湧くとのこと。これもまた人それぞれで、なかなか難しい。

それでも、その決断が愛による決断かどうかを、いつも問いかけてみることでわかることもあるように思う。ひと時の混乱を招くとしても、相手に対する愛からその混乱が起こっているなら、その未来は明るいのではないかと思うのだ。
もちろん、それもかなり勇気のいることだ。こうする方が愛があるとわかっていてもなかなか動けない。愛したくても愛せないのが私たちだ。その弱さを補うために、イエス様この世に来られた。愛せない私たちを赦し応援してくれる。

「神様、守ってください。神様、支えてください」そう祈ることは全員に与えられている権利だ。信じていなくても、心を沈めて祈ってみることだ。必ず何かが変わってくる。私たちの心の中に、弱々しくとも、火が燃えていることをイエス様は願っておられる。
その願いに応えたいものだ。