思い悩むな(聖書の話34)

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

(マタイによる福音書  6章31-33節)

今回の聖句は、神様が必ず助けて下さるという、その確信、その信頼を自分のものとする方法について、「まず、神の国と神の義を求めなさい」と語る。神の国で喜ばれる生き方を探し、神が正しいと示してくれる「神の義」を求めてみなさいと言うのだ。
それでは、 神の国と神の義はどうやって求めればいいのか。信仰者でない人にはがっかりな答えかもしれないが、それは、教会に行く事、聖書を読む事、お祈りをする事に始まる。その生活の中で進むべき道が示されていく。神様からのご利益で判断し、信じるのではなく、何も答えが見えていないときに、それでも、神様にすべてを委ねれば、あとから全てが与えられると聖句は語る。

先日、クリスチャンでない友人と話をしていて、「どうも、ハラダの話は、神様が大前提になっていて、ついていけない」と言われた。人生の不条理について話をしていたのだが、僕の話には、どこか、楽観的な所があると彼は言うのだ。彼は、人生で起こる理不尽を見渡すときに、やっぱり「神様がいるとしたら、いったい何をしているのだ」という思いを抱いてしまうらしい。「大丈夫、神様がなんとかしてくれる」と言う事さえ憚られるような現実はたくさんあるという指摘だった。
確かにその通りだ。表面的にこの世を支配しているのは神様ではないのだと思う。お金に対する人間の欲は愛よりも強く、権力を求めて理不尽に世界を操作しようとする者が成功していくようにも見える。
しかし、その奥に、やっぱり神様の支配、真実の勝利があるのではないかと僕は思う。長い時間をかけて結局は悪が裁かれることや、大金持ちなのに幸せについて全く知らない人がいることを私たちは知っている。貧乏だけど正しく生きた人が何一つ足りないものがない幸せな人生だったと語る場面を目にする事もある。

楽観的だという指摘を否定するつもりはない。と同時に、今回の聖句が約束することを信じる力は、究極のところでは僕にはないかもしれないとも思う。今までの人生はただラッキーだっただけで、本当に大変なことが起こったら、信仰どころではなくなってしまうかもしれない。あー、やっぱり神はいない、人生は絶望だと嘆くかもしれない。

しかし、この言葉を語ったイエス様は実存的に今回の聖句が真実だということを示してくれている。私たちは、教会に行き、聖書を読み、お祈りをする事で、イエス様がどのような生涯を過ごしたかを知ることが出来る。絶望するには十分な状況をイエス様は生き抜いて行く。経済的な不安はもちろんのこと、理不尽きわまりない出来事がイエス様を次々に襲っても、イエス様は進む道を変えない。祈り、神様の声に従い生涯を全うする。
そして、その生涯は、2000年経った今も学ばれ、イエス様が伝えたこと、伝えたかったことは今日も世界で語られている。イエス様は決して楽観的で世間知らずの詩人ではなかった。今回の聖句の裏側に、決意と勇気が隠れている。「きっと神様は自分の人生を無駄にはなさらない」という信仰が隠れている。まだ見ぬ未来への不安を振り切るイエス様自身の決意表明が隠れている。

その決意と結果こそがご利益を大きく上回る私たちへの恵みなのだと気付かされる。信仰者であろうとなかろうと、イエス様の歩まれた道を辿る事が私たちにはゆるされている。イエス様の生涯はすでに起こった出来事だからだ。確かにそこに道があるという安心感。険しく厳しい道ではあるだろうが、不完全ながらも、その道を辿り、思い悩まない人生を歩んで行くことが全ての人に向けて開かれているのだと思った。