希望のある苦難(聖書の話33)

そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

(ローマの信徒への手紙 5章3節~4節)

この聖句を書いているのはパウロという人だ。イエス様の直接の弟子ではなく、むしろイエス様の死後、弟子たちを迫害する側にいたユダヤ教徒だったパウロは、神秘体験の後、回心し、キリスト教徒として多くの手紙を聖書の中に残した人物だ。
パウロの文章は、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいという印象を僕は持っていたのだが、今回の聖句は受け入れやすく、魅力を感じる。ポジティブで、人生に役に立ちそうなにおいがしているからかもしれない。クリスチャンで無くとも納得出来る、普遍的な格言のようにも思える。

キリスト教とは何かということについて、書き記されたこの手紙の中で、今回の聖句は信仰生活の特徴について語っている箇所だ。その流れの中で神学的に語句の意味を探ってみた。
「苦難」は信仰の故にうける迫害、犠牲、痛苦。キリスト者に臨む特殊な艱難。
「忍耐」は信仰的に動揺しないこと。屈せず神の道を行う積極的行為。
「練達」はキリスト教徒がその信仰を試されることで得る信仰的確信。
「希望」は信仰によって義とされた者が終わりの日の輝かしい完成に連なるという希望。

イエス様を信じることで迫害されても屈せずにイエス様に従っていけば、どんどん救われている確信が強くなり、天国があること、天国へと導かれている事を喜べるようになるのだ、という感じだろうか。

語句の意味を理解すると、今回の聖句がきわめてキリスト教的な信仰者の生活へ向けられた言葉であることが分かって来た。イエス様の十字架での死と復活が自分の罪の身代わりだったことを信じ、その復活に置いて神様に救われ、自分がただしい者に変えられたことを信じる、「キリストによる信仰による義」をまず心から受け入れ、喜び、理解する、その先での信仰生活の話だ。

随分難しい話になってきた。しかし、パウロという人物をイメージしてこの言葉を読む時に、救われたという癒しから、信仰生活の実現の厳しさへと深まっていく日々に叫び声をあげている等身大のパウロの姿が見え隠れしていることに気付いた。キリスト者の苦難とは普通なら感じなくともよい苦難であり、その先に練達と希望があることをパウロは強く認識しており、それが信仰者の全てに約束されていることを伝えようとしているのだ。やっぱり、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいのだが、必死に自分に言い聞かせながら手紙を書いているパウロを思い描いて、パウロに出会えたような気分になった。

パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは、おそらく30代に起こった回心から20年後くらい、三回目の伝道旅行の最中だったと思われる。つまり、だいたい50代の半ばくらいだったと推測される。今の僕とほぼ同年代。少し先輩だ。

この箇所は毎日の祈りであり、約束だ。自分を含めて、信仰者を励まし、導こうとするパウロは、決してこの言葉が実現していない信仰者を攻めているのではないだろう。しかし、同時に厳しい積極性を要求していることも事実だ。それは行為による確信を促すパウロの愛とも言える。

さて、私たちの人生には苦難と言えるようなものがあるだろうか。それは、人それぞれかもしれない。苦難だと感じている同じ出来事も別の人にとっては苦難ではないかもしれない。それは本当に個人差がある。しかし、同時に苦難のない人生もまた想像できない。おそらく私たちは人生の中で苦難に出会うことになるだろう。
その苦難には二種類あるのではないだろうか。「希望のある苦難」と「希望のない苦難」。

最後に残った語句として「誇り」について調べていて、ドイツのエルンスト・ケーゼマンの「人間は誇りにおいて自分が誰に属しているかを表明する」という解説を見つけた。
苦難は出来れば願い下げたいところだが、信仰者として救われて来た僕は、同時にこの「希望のある苦難」を、喜びを持って誇りとすることをパウロに勧められているのだと感じた。