待ち望む マルコによる福音書 14章36節(聖書の話28)

「こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」

(マルコによる福音書 14章36節)

この間、久しぶりに「Waiting for a chance」という曲を歌った。10年以上前に書いた曲だ。50歳も近づき、30代の頃とは随分歌詞の見え方も変わっていることに気付く。未来の描き方も変わるからなのだろう。
「Waiting for a chance」を和訳アプリなどで訳すと「チャンスを待っている」という訳が出てくる。「waiting」で「待機」という訳も。でも、なんだかしっくりこないなと思っていた時、その曲のタイトルを、「待ち望む」という気分で歌うのは、なかなかいいなあと感じる文章に出会った。

ヘンリ・ナウエンの「待ち望むということ」という文章だ。

現代は待つ事を困難にした、と筆者は語る。待てない理由は、恐れがあるからだ。変わり続けなければいけない、攻め続けなければいけないという強迫観念がわたしたちの時代にはあり、そのことが、待つ事への恐怖を大きくしているという分析は、なかなか鋭いものだと感じる。自分自身も、その恐れによって「待てない」ということがしばしばある。
何もせずにいることと「待ち望む」こととは大きく違う。筆者は聖書の登場人物たちを例にあげ、こう語る。「待っている人々はとても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今いるところで育ちつつあることをよく知っていました。まさにここに、待つことの秘訣があります。」(ヘンリ・ナウエン/わが家への道/工藤信夫訳)
未来を自分の思い通りにしようとする「願望」は、それが叶わないことへの恐怖を生み、待つ事を難しくする。しかし、神との約束の実現を信頼する「希望」は、未来に対する開かれた態度を生み、待ち望むことに力を与える。待ち望むことは、今を生きることに繋がる。
ヘンリ・ナウエンの語る「待ち望む」ことは、随分積極的だ。

表現者の友達にこの話をすると、「人事を尽くして天命を待つ、やな?」というシンプルな答えが返ってきた。確かにそうだ。自分の作品へのアイデアを探して探しぬいて、くり返しイメージを組み立てて、その努力の先で、新しい作品が生まれてくるのをずっと待っている。絞り出すようにもがいてみても、結局は待つしかないのだ。創造という行為は、宗教的な行為だなと思う。開かれた態度で臨むときに、たとえ予想外な結果であっても、生まれて来た作品を受け入れることが出来る。

今回の聖句は十字架にかかる直前に、ゲツセマネでイエス様が神様に祈った時の言葉だ。願望と希望の間で揺れ動く心が読み取れる。この後、弟子の一人、ユダに裏切られ、十字架につけられ、死ぬことになるイエス様。十字架にかけられたイエス様は完全に受け身だ。もはや、なにもすることが出来ない。しかし、その中にあって、イエス様は「積極的に今を生きている」と感じさせられる。それは、全幅の信頼を神に寄せて、自分の死の意味を神に委ねて「待ち望む」姿なのだと思う。

絶望を越える希望があるということを信じて、待ち望める人でいたいなと思った。