光と闇(聖書の話38)

わたしは言う。
「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。

(詩編139編11節~12節)

 

今回の聖句の冒頭「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す』」は、以前よく使われていた口語訳聖書では「『やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ』とわたしが言っても」と訳されている。
どこにいても全てを知って全てを見ている神様(あなた)から闇を使って筆者(わたし)が逃れたいと感じているニュアンスが読みとれる。

僕は、「神様は見てらっしゃる」という洗脳教育とも言える家庭教育を受けたので、つねに神様の視線から逃れられない気分を幼少期から味わってきた。それは、時には安心を生み、時には反抗を生む。筆者のように、「闇をまとって、神様の視線から逃れたい」という気持ち、そういう試みが湧き上がってくる。今回の聖句は、その気分の中で、白旗を揚げているらしい。所詮は、神様から逃れられないのだという白旗。闇を闇としない圧倒的な光が神様にはあるというのだ。

 

しかし、光とは何を指し、闇とは何を指すのだろう。光と闇からイメージするものを周囲の友達に尋ねると興味深い答えが返って来た。

「自分の内面の表と裏をイメージする」という意見。「光と闇」を自分の中で完結させて感じている。たとえば天使の囁きと悪魔の誘惑というような外からの働きは一切感じていないのだ。自分の中の状態として光と闇があるという感覚。いや、光というより、闇でない部分、自分の中にある、闇と闇でない部分。

もし、外からの働きかけがないとすると、光より闇が強いと感じるのはよく分かる。そうなると、自分の闇は見つめないで生きて行く方が賢いということになるのかもしれない。そして、闇を見つめないことで光にも気がつけないということが起こっているのではないか。うっすらと絶望している、という状態。現代の社会はまさにそういう状態なのかもしれない。

もう一人、興味深い見解を述べた友達がいた。「闇が最初に与えられている状態だな」と彼は言う。光という外からの働きかけがなければ、基本的には闇が支配していると考える方が自然だという。光によって闇は消されるけれど、光がなくなってしまうと闇にかえってしまうという訳だ。

はっとした。

今回の聖句は、まったく逆の発想で語られているのだ。光があるという状態をどうやっても変えられない。闇をまとって光から逃れようとしても、光からは逃れられないと筆者は語っているのだ。そして、その光は、自分の内側からではなく、外からの働きかけとしてあるのだと。そこには決定的な違いがある。その違いとは何か。
「神様がいるかいないか」だ。

圧倒的な光の存在を感じているときに、初めて、光から逃れられないという発想は出てくる。太陽を知っているから暗闇で居続けることは出来ないと感じるように、神様からの光を感じているということなのだろう。神様に対する信仰と信頼において、ある意味では諦めながらそのことを受け入れ、おおいに喜ぶべきだという態度が今回の聖句にはある。

神様はいる。絶対的に存在している。そのことからは逃れられない。僕もそう思う。そう思ってしまった人にとっては、それはよく分かる話なのだとも思う。と同時に分からない人にとって、さっぱりリアリティーがないのかもしれない。いったいどんな光があるというのだ、この世は暗闇だらけではないか。絶望が希望を上回っているではないか、悪が善を押さえ付けているではないか。そういう声が聞こえてくる。

この世の中を見る、自分の心の中を見る、人の行いを見る。神様が存在しないという前提で世界を見渡せば、絶望と暗闇の支配ばかりが目につく。

 

視点の変換が必要なのだ。
たとえば、人と対峙する時に、その人の悪意に気をとられていると、どんどん人間関係は悪くなっていく。自分のことを信じてくれていないのではないか、と怖くなって、なにか歯車がくるってしまう。うまくいっていない一人の人との間にも、本当は愛し合いたい気持ちがあって、求めているのに、表面的には敵対してしまったり意地悪になったり、無愛想になったりしているということがある。分かり合いたい、繋がりたいという自分の気持ちに素直になったり、分かり合いたいと思ってくれていると、相手の事を信じたりすることで、関係がかわったりすることを経験する。
視点を変える事で、見えていなかったものが見えてくる。闇を見ていたのに、光をみつけることが出来るようになる。それは、ずっとそこにあって光を放っていたはずなのに見えていなかった光だ。

 

詩編が書かれた旧約聖書の時代には、神様を感じる事は今よりずっと大変だったかもしれない。しかし、私たちの時代は、イエス様が誕生した後の時代だ。2000年前にこの世に降り立ったイエス様は、見えにくかった光をはっきりとこの世に知らせるためにその生涯を駆け抜けた人だった。全ての絶望、全ての悪意、全ての暗闇に打ち勝つ希望と善意と光を示した人だった。

つまるところ、暗闇とは、お金や権力に惹かれてしまう人間の欲望であり、そこから自由になれない人間の罪へと帰結していくように思う。
その罪に身を任せてしまうことが、人間の本質だとするなら、私たちが見ているのは、神のいない暗闇が支配する世界だ。
しかし、イエス様は、お金や権力が、人間の欲望が、まったく魅力をうしなってしまう力が愛にはあって、その愛は確実に全ての人に注がれているのだと伝える。そして、それでも欲望に身を任せて、罪を重ねてしまう私たちの罪の裁きまで背負って、自分が身代わりとなり十字架について、「もう大丈夫だ、たとえ失敗して罪を犯しても、その償いさえ済んでいる」というメッセージを残した。

わたしたちは、その希望に招かれている。その希望は確かにここにあって、その光は私たちを照らしている。あるものはあるのだと思ったりする。

視点を変えることで、その光に気がつける人でいたいと思った。