手で触れて分かること(聖書の話36)

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」

(ルカによる福音書 24章38節~39節)

 

今日の聖句は、なかなか難しいところだ。十字架にはりつけにされて死んだはずのイエス様が復活して弟子たちの前に現れたときの記述だからだ。今の科学では「そんなことはあり得ない」という聖書箇所だ。
「科学的か」とか「現実的か」とかそういう問題としてイエス様の復活を考えると、どうしても話は難しいところにいってしまうのだが、この聖書箇所を読んでいて、あるとき僕はある感情をいだいた。

 

この箇所での弟子たちの状況は、相当絶望的なものだっただろうと思われる。人生をかけて、イエス様に従う事をきめて、一緒に歩んで来たのに、そのイエス様が時の権力者によって、死刑を宣告されて死んでしまったという現実。自分たちにも身の危険が迫っている弟子たちは、それでも、ばらばらに逃げる事もせずに、部屋に鍵をかけて、また集まっていた。
この先の人生をどうすればいいのか、なぜ、イエス様は死んでしまったのか。答えのない自問自答の中にいたのではないだろうか。
そこへ、イエス様が肉体をもって現れる。しかも、「触ってみろ」という訳だ。

 

僕が抱いた感情は「よかったなあ、嬉しかったやろうなあ」だ。それは不思議な感情だった。復活を信じられたとか、分かったとかではなく、ただ素直に弟子たちの気持ちを感じた経験だった。

 

例えば、誰かと会い、話をしたとしよう。その人が実在したかどうかを疑う人はいないだろう。それは、信じるか信じないかではなく、そこにその人がいたことは出会った本人にとっては確かなことだからだ。それと同じくらいの確かさで、はっきりと、弟子たちはイエス様がそこにいる事を感じたのだと思うのだ。ただただ嬉しかったのではないかと思う。

 

そして、その物語は、2000年ものあいだ、くり返し、弟子たちと同じようにイエス様が復活したことを確信する人たちによって、語られ、聖書に記され、消えてしまうことなく、私たちのもとまで運ばれてきたのだと思う。
科学的な説明など必要のない確かさで復活したイエス様に出会い、喜びを感じる。イエス様の教えに従い、人生を歩む中で、イエス様の人生に出会っていくということが起こる。聖書を読み、教会に通い、自分の生き方を探し求める時、イエス様が十字架にはりつけにされ死んでしまうということに、弟子と同じように絶望するという事が起こる。そして、復活したイエス様に出会うということが起こって来たのだと思う。

 

「Baggage」という曲の歌詞を今回は紹介しようと思う。復活は論理的証明、科学的証明が可能な出来事ではないかもしれない。けれど、主体的告白としてなら、確かなことなのではないだろうか。イエス様の復活は、語り継ぎたくなる喜ばしい出来事なのだと思う。

 

「Baggage」

 

手で触れて分かること 抱きしめて感じあえることを 運んで行くんだ僕ら
不確かで危うくて 切なくてあたたかい心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

愛しさに守られること 見つめれば伝えあえることを 運んで行くんだ僕ら
慰めて励まして ぎりぎりで浮かんでる心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを
僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを