信仰と天国 ヘブライ人への手紙 11章1節(Heaven)(聖書の話11)

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」

ヘブライ人への手紙 11章1節

今回は天国についての話をしよう。
あなたは天国をどのような所だと考えているだろう。死んだ後に行く場所だろうか。天使がいて、美しいお花畑を流れる川の横でハープを弾いている女性が見えたりするだろうか。美味しいものが自由に食べられる場所、美しい女性やかっこいい男性が沢山いる場所、望むことが全て叶う世界。
しかし、そうやっていろいろイメージしてみて、その場所に暮らす自分を想像してみると、その世界は実は退屈なのではないかと僕には思えてくる。

そんな退屈な世界が天国だとは僕は思わない。世の中で目にする天国の描写は、最高に刺激的で気持ちのいい瞬間を、人間の貧困な想像力で語ろうとした結果でしかないように思う。

「死後、天国へと登って行くことが人生の目的である。よく生きる事はよく死ぬことだ。」確かに、キリスト教にはそういう考えを促す部分がある。しかし、私たちに分かるのは生きている間に確かめられることだけだ。死んだ後の事は、どうやったって分からない。聖書は天国があると約束している。でも、そのことを生きたまま証明する事は出来ないという訳だ。

今回の聖書は言う。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」

論理的証明は出来ないが、感じることは出来る。経験が確信を導くことは起こる。私たちは生きている間には天国に行く事は出来ないのかもしれない。それでも、天国を予感することは出来るように思うのだ。僕は、時々、永遠が瞬間の中に落ちてくるということを経験したりする。素晴らしい音楽や芸術とふれあう時、友達の優しさや愛に出会う時、「奇跡」だと感じる様々な瞬間に永遠を感じたりする。それは、垣間見える天国的なものだと僕には思えるのだ。
「死ぬまでは本当には分からない。でも永遠に続いて欲しいと感じるこの瞬間の中に吸い込まれるような幸せが天国にはあるのかもな。」そんなことを感じながらHeavenという曲を作った。今回はその歌詞を味わってもらえればと思う。

「Heaven」

天国はこの世にあるって教えてくれた君 目に見えないけれど感じるのが本当の証
天使は気まぐれでも応援してくれる 前を向けるよほらキスしてハグして

Every day every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる

神様がそこに降り立って微笑む瞬間を 書き留めて歌おうとしたら嘘だけが残った
確かな気持ちだけなら僕は君に夢中 前を向けるよほらキスしてハグして

Every day every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

人生は不思議な糸で繋がった誰かと たぐり寄せ合って抱き合い
創り上げ 赦し合い 笑い合う 美しい毎日

Heaven knows, every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる
God only knows, every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

Every day every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる
Every day every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

小さな奇跡 マタイによる福音書 25章31節~40節(小さな奇跡)(聖書の話10)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

(マタイによる福音書 25章31節~40節)

この聖句はこの世の終わりの時についての記述だ。天国へ招かれる人々はどのような人かを例えたこの聖句。この世での私たちの行いの中で、神様が高く評価し、喜んで下さるのはどのようなことなのかが、この聖句には示されている。それは、何か大きな仕事をしたり、大成功をおさめたりすることではなく、小さい者への小さな親切だったりする。
その行い自体は難しいことではない。僕らの手の中にある日常的な事柄だ。毎日の中にある。でも、それを大切にし、実行する事は本当は難しいことなのだとも思う。
日々の中で出会う人をしっかりと愛する難しさ。私たちは、遠く離れた所で起こる大惨事に関心を示し、自分の出来る事をしようとしたり、手を差し伸べようとする。その一方で、近くにある悲しみや、隣にいる友の心の傷に気がつくことが出来ないこともしばしばだ。手を差し伸べる事に躊躇してしまっている自分を感じる事さえある。
しかし、それこそが、私たちが生きて行く上で神に要求されていることなのだ。

少し前に「小さな奇跡」という曲を書いた。今回はその歌詞を紹介しようと思う。今日の聖句が語る内容と共に、詞を感じてもらえると嬉しい。

「小さな奇跡」

世界を救うために  嵐を遠ざけ波を止める
そんな力 僕らにはない

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて世界さえ救うような奇跡

未来を変えるために  星を降らせ太陽を隠す
そんな力 僕らにはない

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて未来さえ変えるような奇跡

心が揺れて 瞳が動いて 涙流れて繋がって

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて世界さえ救うような奇跡
未来さえ変えるような奇跡

罪は赦される ヨハネによる福音書 20章19節~23節(聖書の話9)

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち『あなた方に平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

(ヨハネによる福音書 20章19節~23節)

今回の聖句は金曜日に十字架にかかって死んだイエス様が、日曜日に弟子たちの前に現れた時の記述だ。今や死刑囚の弟子となったイエス様の弟子たちには、社会からの迫害の危機が迫っていた。それでも、弟子であることを諦めて逃げてしまうのではなく、恐怖を感じながらも家の戸に鍵をかけて、彼らは集まっていたということになる。

「あなたがたに平和があるように」

その言葉は、彼らの心の不安への言葉だ。「大丈夫、安心しなさい、私だ」とイエス様は言う。
さて、「死んだ人間の復活」という視点でこの物語を見ると「眉唾物だな」などと感じてしまう。「あり得ない出来事だ、バカバカしい」となってしまう。しかし、弟子の気持ちになって読み取ると、弟子が「喜んだ」という気持ちを、素直に受け入れることができることに、ある時僕は気がついた。そりゃあ嬉しかっただろうと思うのだ。だって、会いたくても会えないと思っていた、死んだはずのイエス様が目の前に現れたのだから。イエス様が肉体を伴ってそこに現れたかどうかを知る事は出来ない。しかし、少なくとも弟子たちはイエス様をそこに感じ、イエス様の声を聞いたのだろう。そして、再会以上に嬉しい言葉がイエス様から弟子たちに発せられる。

「わたしもあながたを遣わす」

弟子達に、イエス様が、この先の人生の指針を与える瞬間である。

イエス様は彼らに息を吹きかけたと書かれている。高校の授業で、この場所の解説をするときに、学生たちが、どのようにこの言葉を読んでいるか、素直にそのシーンを演じてもらったりする。フーと優しく息を吹きかける学生もいれば、「ささやくような小さい声で言ったということでは?」という学生もいる。役者になったと思って、どう演じるかを考えるとなかなか難しい記述だ。
僕は、「息」と訳されているギリシャ語が「風」あるいは「聖霊」とも訳せる言葉であることから、「彼らに息を吹きかけた」というイエス様の動きではなく、弟子の側に、息を吹きかけられたような気持ち、もっと言うと、鳥肌が立つような、ビビビッと来るような湧き上がる力が吹き込まれたような感覚があったのではないかと解釈している。これからの人生に意味を与えてもらった!という喜びからくる感覚だ。弟子たちは失意と絶望の中にいた。未来を見失って、それでも諦められずに集まっていいた。そこに、イエス様がやって来て、「落ち着け、安心しろ、お前たちには仕事がある」というのだから、やっぱり嬉しかったと思う。

彼らへの指示はこのようなものだった。

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

この言葉は、二つの読み方ができるように思う。一つは、「はい、あなたの罪は赦されません」というように、弟子たちに、彼らがこれから出会う人々の罪を赦すか赦さないかを決定する権限を与えるという読み方。意地悪な言い方をすると悪い人間をさばいて、天国に入れない、あるいは地獄へ落とす権限を弟子に与えるという読み方だ。もう一つは「おまえたちは、これから、人々の罪を赦してまわるのだ。もしさぼって、罪を赦す事を怠ると、その人たちは天国に行けないようになってしまう!人生をかけて、赦してまわりなさい、救ってまわりなさい」という読み方。随分印象が変わる。そして、僕は、イエス様が言わんとしたことは後者の読み方に近いのではないかと考える。

僕は度々、自分のライブのお知らせを友人たちに送るのだが、先日、そのお知らせをFACEBOOKで友達になっている人に送るという作業をした。1000人以上いるFACEBOOK上での友達の中から、関西にいる人たちを選んで一人一人にメールを送った。最初は適当に送ろうと思っていたのだが、「この人にも送らないと、あ、この人にも…」というように、だんだん増えていって、結局600人くらいになったと思う。6時間くらいやっていたのではないだろうか。「お知らせするべき人をこぼしてはいけない!」と思うと、どんどん人数が増えていくのだ。僕が知らせなければ、その人が知らないまま僕のライブは終わっていってしまうのだ。…まあ、僕のライブは終わってしまっても特に問題はないのだが。

そういう一生懸命さで、罪を赦してまわりなさい、とイエス様は弟子たちに伝えたのだと思うのだ。
「罪を赦す」それは、イエス様が生涯をかけて行ったことだ。イエス様は、人々に嫌われた罪深い人たちを孤独から救い上げ、愛して、そして、その罪を赦して回った。
どうやって。
死刑にも相当する彼らの罪をどうやって赦したのか。
イエス様がしたことはたった一つだ。イエス様の言葉を信じる人たちに「あなたの罪は赦された、あなたの信仰があなたを救ったのだ」と伝えただけだった。
なぜその言葉をイエス様は言うことができたか。それは、彼が、無実の罪で十字架につく覚悟があったからだと思う。「あなたはもう一度やりなおせる。死刑に相当するあなたの罪の償いは私が引き受ける」とイエス様はその命によって罪の赦しを示す覚悟をしていたのだ。
そして、事は起こった。イエス様は本当に無実の罪で十字架についた。
弟子たちはその一部始終を分からないなりに見て来た人たちだった。今、イエス様に言われて、すべてのお膳立てが整っていることに彼らは気がついた事だろう。「あなたたちは、私が無実であることを知っている。そして、十字架を見た。その十字架は全ての人の罪の身代わりとしての十字架だった。全ての人の罪は、この後、私の十字架によって赦される。そのことを伝えて回る事、それが、これからのあなたたちの人生だ」という訳だ。
罪を赦される事、それは人生を取り戻し、希望の中に生きる自分を取り戻すということ。それこそが、キリスト教が私たちに伝えている一番シンプルなメッセージだと僕は思う。

君が一緒にいてくれる日 マタイによる福音書 6章6節(君が一緒にいてくれる日)(聖書の話8)

「だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

(マタイによる福音書 6章6節)

先日「一人でいる日」という文章を読んだ。ボンヘッファーという神学者の「共に生きる生活」という小さな書物の中の文章だ。「神と一人で向き合うことなしに、教会で信仰者同士が交わることは難しい」また「本当に人との交わりを望むなら、一人でいることができる人になる必要がある」というような内容だった。はっとさせられる思いがした。

私たちの時代は、なかなか一人でいることを許してくれない時代だ。Smart phoneはどこまでも「繋がる」ことを要求してくる。LineやMail、TwitterやFacebookでのやり取りは、私たちを孤独から救ってくれるようにも思える。でも、冷静になって考えると、本当は何も繋がっていないことを誤魔化してくれているだけのようにも思えてくるのだ。高校生を見ていても、学園祭の前などは、慌ただしく過ぎる毎日の中、つながり続けることを余儀なくされ、一人になりたくても、一人になれない、そんなストレスを気が付かないうちに抱えてしまっている人が案外いるのかもな、と勝手に思ったりする。大きなお世話だが、「しんどいこともあるだろうな」と思ったり。そして、それは自分自身にも言えることだったりするのだ。

今日の聖句は、祈るときには一人きりになり、祈っている姿を人に見せないようにしなさいと語っている。一人きりになれたとき、神様が見つけてくれていることに気が付くだろうと語っている。

沈黙の先に音楽が聴こえてくるように、一人になった先に繋がりは見えてくるのかもしれない。そんなことを思いながら、少し前に「君が一緒にいてくれる日」という曲を書いた。実は、どんな場所にいようとも、目を閉じればそれぞれが一人になることができる。ひと時、一人になって神と向き合う時間を作ることはできる。寂しさをごまかすのではなく、受け止めることの大切さを思う。

今回は「君が一緒にいてくれる日」という曲の詩を紹介しようと思う。

「君が一緒にいてくれる日」
今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日

カーラジオ流れる曲が沈黙と孤独和らげる
神様に愚痴をこぼして 打ち明けるように呟く高速
うまくいかない昼の出来事 思い巡らし踏むアクセル

今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日

透き通る夜 雨上がり 街の灯りと流れる雲
小皿みたいに浮かぶ月 空に向かって伸びてる高速
落ち込む気分 冷たい風に乗せて飛ばして踏むアクセル

今日は一人でいる日だ メールも電話も がまん がまん
こんな日があるから 君が一緒にいてくれる日を喜べる
逃げ出さずじっと受け止める一人でいる日

君をそばに感じている一人でいる日

友のために マルコによる福音書 15章12節~13節(聖書の話7)

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

(マルコによる福音書 15章12節~13節)

この聖書箇所で説教を予定していた前日、友達がやっている喫茶店でお話の準備をしていました。女性の店主で美味しいコーヒーを入れてくれるので、よく仕事の合間を縫って立ち寄るの喫茶店です。その友達に、この聖句の感想を聞いてました。ちょうどカウンターに僕一人という状態だったのです。聖句を読み上げると、
「今時?この時代に?命をすてる?どんなシチュエーションですか?戦争ですか?あ!比喩?例え?」と矢継ぎ早に質問が返ってきました。
確かに、「友のために自分の命を捨てる」なんていう状況にこの現代の日本で遭遇するとは思えないという彼女の感想は、至極当然のような気もします。聖書に慣れ親しんでしまって、僕の方は気がつかなくなっている。その言葉の現代に対するギャップ、違和感を感じる力がいつの間にか落ちてしまっているなあと改めて思いました。
そこで、この聖句をどう解釈すればいいのかを考えるのでちょっと付き合ってもらえないかと、協力をたのみました。随分迷惑なカウンターのお客です。相変わらずカウンターには僕一人という状況でした。まあ、もう閉店前だったのですが。
最初に思いついたのは、最近の彼女の周囲での出来事でした。彼女には片思いの相手がいたのですが、最近、その男性に新しい彼女ができたらしいという出来事です。その報告がなかなか素敵な報告で、「新しい彼女があまりに素敵なので、自分の思いが片思いで終わって行くことが、本当に腑に落ちた。この恋とはきっぱりお別れできそうです」という報告だったのです。
例えば、自分の想いを成就する事だけに興味があったのでは、そんな報告にはならないように思うのです。そこには、自分の想いが犠牲になっても、大切な人にとって、本当にいいことが実現するならそのことを喜ぶという愛情があるように感じました。片思いの相手ではありますが、友として、その相手の幸せを喜ぶ姿があるのではないかと感じたのです。彼女の方は、全く腑に落ちていないようでしたが。
とにかく、「命を捨てる」とは、そういう、自分の思いを尊重するのではなく、相手のことを考えるということなのではないか、と説明しました。「命を捨てる」ではなく、「人生を投げ打って」とか「犠牲を払って」なら分かる?と聞いてみると、「うん、まあ、それならばなんとなく分かる」ということでした。

命とまではいかないが、犠牲を払った事がないか、今度は自分自身の経験に問いかけてみました。いつも、自己愛ばかりが先行して、我がままに生きているという事例ばかりが頭に浮かびました。それでも、何回かに一回は、自分が損をする決断を友のためにすることはあります。そういう決断をして犠牲を払うと、それ以上の大きな見返りというか、恵みがあることにも思い当たりました。

さて、この聖句は、そういう処世術的なことを伝えようとしているのでしょうか。

弱い僕らには、何回かに一回、自己犠牲を払って、及第点の愛情を示せたと自己満足する道も許されてはいるでしょう。しかし、この言葉を語っているイエス様の状況を考えてみると、全く違う感想を持ちます。この言葉を語った後、翌日にはイエス様は無実の罪で十字架にはりつけにされ、本当に死んでしまうのです。
イエス様の人生の中で、この言葉を読むと、本当に「自分の命を捨てる」というその言葉の通りの人生が浮かび上がります。イエス様は無実の罪で十字架にはりつけにされ死んで行きます。イエス様は人々の罪を償うためのいけにえとして自分の死を受け入れたのだという事が、聖書を読んでいると分かってきます。それは、私たちが、死を持って償わないといけないような罪を犯したとき、身代わりになって死んでくれる人がいる、すでに存在したということを意味します。そのことを信じれば、罪が赦されるということが聖書の中では約束されているのです。
そこには、当時のユダヤの民のいけにえの習慣や、罪は神に赦してもらうものだという価値観が存在するので、「イエスの十字架の死の意味」を、現代の日本に生きている私たちが、直感的に理解するのは難しいかもしれません。
ただ、「友のために自分の命を捨てる」この言葉をイエス様が自分の人生の終わりに語ったことを思う時、イエス様が、弟子を、あるいは広い意味ではキリスト教に出会う私たちを含む全ての人たちを「友」と呼んだのだということに気がつきます。
私たちを「友」と呼び、そして命まで差し出してくれるのです。ちょっと気持ち悪い話かな?嫌悪感を持たれるかな?と思いながらカウンター越しに説明をしてみました。

彼女は「うん、それはありがたいかもなあ。だから、そういう風に愛しあえってことね」と今度は意外にもすんなり話を受け入れます。僕が勝手に難しいと感じている部分は案外簡単なのかもしれません。どうやら僕は、すっかり「聖書おんち」です。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

「これ以上に大きな愛はない」という愛はすでにイエス様によって示されている。それは、私たちに向けて示されている。まずはそのことを喜ぶことから始めればいいのかもしれません。
そして、わたしたちは、互いに愛し合うことを努力すればいいだけなのかもしれません。友のために、本当に自分のエゴを押し殺すべき時が来たときに、イエス様の言葉はその決断の勇気の源になるでしょう。損をしたと感じるのではなく、友を愛せる喜びを感じられる人でいたいなあと思いました。

小さい者 マタイによる福音書 18章10節~14節(聖書の話6)

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば。九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずに九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたの天の父の御心ではない。」

(マタイによる福音書 18章10節~14節)

今回の聖書箇所はキリスト教の世界では、非常に有名な箇所だ。讃美歌にもなり、教会学校で子供たちへのお話にもよく使われる箇所。でも、みなさんにとっては初めての聖句かもしれない。物語は非常にシンプルだ。もう一度読んでみよう。

「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば。九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずに九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたの天の父の御心ではない。」

この譬え話について、今回は考えてみたいと思う。

僕の仕事の一つは、シンガーソングライターだ。音楽を奏でて、人の前に立ち、歌を歌う仕事だ。そしてもう一つは、高校の先生。教壇に立ち、授業をする仕事だ。毎日のように人前に立つ。そういう仕事につくと、沢山の人を相手に、例えばメッセージを発信するということに、何か、特別な権限を与えられているような錯覚に陥ったりしてしまう。
音楽はお金を払って観に来てくれている人が相手だから、お客様の立場が上と考えている時もあるのだが、ファン相手となると、もう、こちらが歌ってあげてるという気分についついなってしまったりする。授業だと、なおさら、学生は聴くのが当たり前、という気分になって、こちらが面白くない授業をしていても、聴いていない学生を平気で注意するということも起こったりする。もちろん、いつもエンターテイメントとして成立している授業である必要はなく、眠くなる、退屈な、けれど大切な授業もあるとも思うのだが。

そういう仕事をしているものだから、今日の聖句を読んだときに、最初、授業での出来事を思い出した。

ある年、非常に態度が悪く、私語の多い学生さんがいた。何回注意しても、落ち着く気配がない。おまけに、僕のことを嫌っているようだ。
これは余談だが、学生というのは結構残酷で、平気で「面白くない」だとか「つまらない」だとか、聞こえる声で「だるい」あげくのはてには「きもい」だとかを口にする。教師は傷つかないと思っているようだ。実は、かなり傷つく。失礼、完全に脱線した。
まあ、その学生は特別で、クラスの中でも少し浮いた存在、手を焼いている、同級生たちも持て余している存在になっていたように思う。だから、その学生が騒いでいる事を「無視」するという方法で授業を進めても、比較的他の学生からは受け入れられそうだという雰囲気だった。
ある日、彼女の態度があまりにひどかったので、「授業を進める為だ。うるさい事はみんなにちょっと我慢してもらって、存在しないものとして無視させてもらおう」という気持ちが僕の中で一瞬起こった。
その気持ちを持った瞬間に、僕は自分のことが恐ろしくなった。授業を司るものが、自分のクラスの学生をいないものとする。そんな傲慢で自分勝手な決断が許されるはずがない。人の存在を消す権利など、人には与えられていないと思うのだ。
今日の聖句を、僕は、人の前に立つ、あるいは上に立つ人間へのリーダーシップのあり方への提案だと感じて読んだ訳だ。ところが、いろいろと注解書などを調べていて、ある説教者の言葉に、またドキッとさせられた。

以下が抜粋。
「小さい者の小ささは、私どもが、それだけ自分を大きくしているしるしです。自分がそれだけ大きくなったつもりで小さく見ている人びと、それが『小さいもの』なのです」

みなさんは、今日の聖句のどの場所に自分を見いだすだろう。羊飼いにだろうか、迷い出た一匹の羊にだろうか、残された九十九匹の羊の中にだろうか。
ミュージシャンや教師をしていると、ついつい、自分は羊飼いだと勘違いをしてしまう。羊飼いと類似する責任を持っているのも事実だが、自分だけが大きい者という、傲慢な勘違いをしてしまう訳だ。先ほど、余談で学生は残酷だ、教師だって傷つくと書いたが、それは、自分を大きく見せているから、学生に人間扱いされないという事の結果なのかもしれない。

あの日、学生を無視しかけた僕は、まさに、迷い出た羊だった。愛すべき自分の学生を愛する事ができない、惨めで無力な小さな者だった。そういう小さな者、自分の罪に自分の存在を見失いかけた者を、神様は、イエス様は決して見捨てないということをこの聖句は伝えている。
世の中に見捨てられ価値がないと判断された者を神様は探し求めてくださる。そして、救って、喜んでくださるというのだ。
喜んでいるのは誰か。このたとえ話では、羊飼いだ。僕にしつこく注意された学生はおそらく喜んでいない。授業の進み具合が悪くなる事を我慢している他の学生たちも、やっぱり喜んではいないだろう。羊は、もっと遊んでいたかったかもしれない。けれど、その先には闇と死が待っている。無視された学生は未来を失い、無視した僕は、教師としての意味を失ってしまう。そういう無力な私たちを神様は一生懸命見つけ出すと約束をしてくれる。
僕を含む、この文章を読んで下さっているみなさん、つまり私たちこそが、みな「小さい者」なのだと僕は思う。それぞれが道に迷い、人生に不安を抱きながら、一生懸命生きている。その私たちを神様は、イエス様は探し出してくださる。それは、ありがた迷惑な話かもしれないけれど、やっぱり、ありがたくて、安心できる、素敵な事だとも感じる。

キリスト教の「愛」 コリント信徒への手紙 1 13章4節~7節(聖書の話5)

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

(コリント信徒への手紙 一 13章4節~7節)

今日の聖句は、非常に有名な箇所だ。「愛の讃歌」と言われるこの箇所は、キリスト者の愛の詩的表現として、不朽の名言だと言われている。そして、よく、キリスト教式の結婚式で引用される箇所でもある。そんな訳で、もしかすると、人生の中でみなさんが一番耳にする機会が多い聖句と言えるかもしれない。
これは私の先輩の先生がおっしゃっていたのだが、この聖句の「愛」の代わりに「自分」という言葉を入れて読んでみると、いかに自分が愛せていないかがよく分かるそうだ。

「自分は忍耐強い。自分は情け深い。ねたまない。自分は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

いやいや、もう一言目で恥ずかしくて前に進めない感じだ。しかし、そうすると、私たちは、人を愛したことがないということになってしまうのだろうか。そんなことはない。やっぱり、愛した記憶もあれば、愛されたようにも思う。すると、ここに記されている愛は、普段、私たちが口にする愛とは少し違うものなのかもしれないという気がしてくる。

そんなことを思いながら「キリスト教の『愛』」について今回は調べてみた。

新約聖書はギリシャ語で書かれたが、今、わたしたちが日本語で読んでいる聖書で「愛」と訳されている言葉、キリスト教の愛は、当時のギリシャ世界にとって、全く新しい概念だったようだ。ギリシャ語にはいくつか、日本語で愛と訳される言葉がある。代表的なことばはエロース。プラトンが哲学することで深めていった概念とも言われるエロス、エロースは、私たちのよく知っている、恋愛に代表されるような、己の為に美を求める、熱狂的な愛情のことだ。そして、もう一つその対局というか、比較において分かりやすいフィリア。これは友情などに見られる、穏やかな感情。
ギリシャ世界に対して、キリストが、あるいはキリスト教が提示した愛はその二つとは全く違う概念だったと言える。

アガペーという言葉であらわされる愛。それが、今日の聖句が説明しょうとしている愛だ。それは、キリスト、イエスが生涯をかけて示した、神の愛のことだ。

神が、イエスを通して私たちに示した愛はまさにこのような愛だったのだとこの手紙を書いたパウロは証言している。アガペーを哲学書などで調べると「神から人間に下ってくる下降的愛」とある。エロースが求めて求めて奪って行く上昇的愛なのに対して、アガペーは与えていく愛ということになる。

エロース、フィリア、アガペー、そのどれもが日本語では愛と訳される。同じ言葉で訳されるのは、それらが非常に近い感情だからだろう。私たちが誰かを愛している愛を分析しても、そんなにキチンとどのギリシャ語の愛に相当するかを判断する事などできないだろう。むしろ渾然一体となった感情として愛しているのではないだろうか。奪いながら与えていたり、大切に思っているからこそ熱狂的になったり、かと思えば忍耐強く信じて待っていたり。上手く愛せていないと感じていても、不器用だとしても、愛するという言葉がぴったりと来る人との関わり方を私たちはイメージする事が出来る。そこにはエロースもフィリアもアガペーも含まれているような気がするのだ。

神から人間に下ってくる愛、あるいはキリストが私たちに示した愛。それは私たちと関係のないところにあるのではなく、私たちの関係の中に見え隠れしていると言える。神の愛は人を介して現れると私は思う。
冒頭で私は、こんな愛情は私の中にはないと語った。けれど、ないのではなく、不完全で分かりにくくなっているだけなのかもしれないとも思うのだ。そして、すぐ近くにこの愛情を感じることもある。例えば、子供に対する母親の愛情は、まさにこの聖句そのものだったりすると思うのだ。忍耐強く、情け深く、自分の利益を求めず、いらだたず、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えて、子供に接している母親を度々目にする。

私たちも瞬間的になら、無償の愛、与え続ける愛としてわき出してくる感情に身を任せられる事があるのではないか。けれど、それはいつの間にか、過度の期待を寄せてしまったり、依存してしまったり、見返りを期待してしまったりする愛情へと変わってしまうのだろう。そういう不完全な私たちに、この聖句は私たちの愛が目指すべき方向を示しているとも言える。誰かを大切に思う私たちの気持ちが、今日の聖句のようであるならば素晴らしいなあと思う。最後にもう一度この聖句を味わってみて欲しいと思う。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

愛するということ ヨハネの手紙1 4章12節(聖書の話4)

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」
(ヨハネの手紙1 4章12節)

 今回は、「愛するということ」という大胆なタイトルをつけている。そんなに大層なことを語れる訳ではないのだが、僕が高校のキリスト教学の授業の中で話している内容をもとに、キリスト教が語る「愛」についてなんとなく考えていることを書き記してみようと思う。

「『愛する』ということが今ひとつどういうことか分からない」ということについて、学生に説明する為に、なぜ分かりにくいのかを考えたり調べたりした事があった。そして、その理由の一つに、「愛する」「愛される」「愛」という、この三つの違いについて、私たちが通常あまり区別せずに話をしているということがあるのではないかという指摘に出会った。
そこで、この三つの関係はどうなっているのかを考えてみることにした。まるで小学生のようだが、僕のイメージを少し説明してみようと思う。

まず、「愛される」について。「愛されたい」という気持ちが僕の中に確かにあり、それはまるでタンクのようだと僕は思った。そこで、それを「愛されたいタンク」と名付けてみた。次に「愛する」について。「愛したい」という気持ちもやはり自分の中にあり、それはまるで蛇口のようだと思った。そこで、それを「愛したい蛇口」と名付けた。そして、「愛されたいタンク」の下に「愛したい蛇口」がついているという設定にしてみたのだ。これは、僕だけではなく、すべての人に使える設定ではないかと思った。みなさんそれぞれの心の中に、蛇口のついたタンクがあるという感じだ。最後は「愛」について。誰かが愛してくれると、その人のタンクの中に水が入ってくる。この水が、「愛」ということになる訳だ。愛される時には、タンクで愛を受け取り、愛するときには蛇口をひねり、タンクに溜まっている愛を相手のタンクに注ぐというイメージだ。
この小学生のようなイメージを僕は大変気に入った。もし、そうだとすると、いろいろなことの説明が、簡単になるのだ。
例えば、愛されたのと愛したのではどちらが先か、というような質問にも、簡単に答えられる。当然、愛されたのが先だ。だって、生まれて来た時にはタンクは空っぽなのだから。誰が愛してくれたか。もちろん育ててくれた人、多くの場合、親という事になるだろう。子供をかわいがる親の説明をする必要はないだろう。僕の友達も、たのんでもいないのに、自分の子供の写真を見せてくれる。「我が子かわいい記録更新だ!」とばかりに、毎朝見せてくれる友人もいた。子供は、親にもらった愛情をタンクに蓄えて、初めて他者と関わる。例えば、公園デビュー。同年代の子どもと出会い、砂場で遊び、転んでしまった新しい友達に「痛いの痛いの飛んで行け!」と、初めて、自分から蛇口をあける訳だ。そこからは毎日の生活で愛情の交換が始まる。そして、大人になった私たちはもう、バランスを見ながら、出会う人の中から大切な人を選び、愛情の交換を日々行っているのだと思うのだ。
イメージはどんどん広がる。「ありがとうを言うのがへたくそなあの友達は、きっとタンクの水がエンプティー寸前で、愛を返してくれないかもしれない僕みたいなやつに簡単に愛情はそそがないつもりなんだな」とか、「大好きな彼との恋愛が終わってしまって、もう恋なんてしないと言い張るあの子は、恋愛をすると、彼から貰ったタンクの中の愛を使ってしまうからいやなんだな」とか。本題を超えて、水質の問題や水量、水の出し方の美しさなど、いろいろなことまで考えたくなってくる。でも、このあたりでやめておこう。

キリスト教は愛すること、つまり、蛇口を開けることを要求する宗教だと思う。「互いに愛し合え」と今日の聖句は私たちに伝えている。そうすれば、「神はわたしたちの内にとどまる」と続いている。タンクの状態がどんなに悪くても、愛する事をやめるなと言うのだ。なかなか厳しい要求である。
しかし、それこそが、キリスト教が世界に広がった理由、2000年生き残ってきた理由だと僕は思う。
もう自分のタンクには愛がないという状態でも、聖句に従って蛇口をひねるときに、奇跡は起こる。なかったはずの愛が蛇口からどんどん流れ出るという奇跡だ。蛇口を閉めて、タンクを確認しても、やっぱり空っぽだ。またおそるおそる蛇口をひねると水が出てくる。それはどういうことか。自分のではなく、神の愛が、自分のタンクと蛇口を通って出て来ているのだ。それは神に愛されていることを意味する。しかし、神の愛は蛇口でしか確認できないというわけだ。なんと実践的な宗教。決して、ご利益のように先行投資をしてはくれない、自分の身を切って、はじめて愛されていることが実感できるというキリスト教の厳しさに、深く納得をし、感銘を受けたのを思い出す。
もう一度聖句を読んでみよう。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」

互いに愛し合う決意をすれば、実行に移せば、いくらでも愛を与えると神は約束をしてくれている。わたしたちのタンクの内側に愛があふれる状態を約束してくれているのだ。その約束は真実の約束だと僕は思う。もう自分では愛せないと思っていても、勇気を持って蛇口を開けるとき、想像もしなかった和解の道が開けるというような経験をする。それは神様が働いたと感じる経験だ。
実践による確信の中で、私たちは神を感じるのだと聖句は伝えている。愛する事を怖がらずに実践できる人になりたい、そして、みなさんにもそうあってほしいなあと思う。

心のあるところ マタイによる福音書 6章19節~21節(聖書の話3)

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

(マタイによる福音書 6章19節~21節)

今回は、イエス様の言葉を通して、私たちの「心のあるところ」、私たちの心はどこにあるのか、について考えてみたいと思う。

僕は、同志社高校でキリスト教学という授業を担当しているが、その授業で「『生きて行くために本当に大切なもの』とは何ですか?」という質問を高校生にすることがある。20人くらいの学生にどんどん発言させて行くのだが、まあ、キリスト教の授業なので、最初は「友達」とか「家族」とか、「生きようとする意思」だとか、当たり障りのない答えを、気を使って答えてくれる。そして、ちょっと勇気のある頭のいい子が「愛」と答える。本当にそうか?これで生きて行けるか?と問うと、「住むところ」「食べ物」「着るもの」と続き、業を煮やした学生がやっと「お金」と答えるというパターンが多い。「愛」と「お金」が出てしまってからは、教室は随分リラックスした雰囲気になる。誰かが「空気」なんて言うと、「水」「酸素」とちょっとふざけた感じで泥試合のようになって行く。

「生きて行く為に本当に大切なもの」の答えを黒板に書き記して行くと、大きくは4つくらいに別れている事に気がつく。一つは愛に代表される人との関係にまつわるもの。もう一つはお金に代表されるもの、言い換えればお金で買えるもの。三つ目は生物として生きて行く環境を支えているもの。そして、生きて行く哲学のような自分のアイデンティティーを支えているもの。とは言え、やはり、この質問では「お金」か「愛」かの選択が迫られているという感じがする。授業で、この二つの言葉を学生から引き出すのに少し時間がかかることが多いのは、学生側も授業が求めている答えを直感的に分かっていて、そのことを正直に答えるのは少し恥ずかしいことだと感じているからかもしれない。
「やっぱりお金やろう」と僕が言うと、ちょっと意外そうな顔をしながら、同時に安心した表情を学生は見せる。キリスト教の授業だから「愛」って言わなければならないとどこかで思っているのかもしれない。

さて、今回の聖句をもう一度読んでみよう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

生きて行く為に本当に大切なもの、その全てを「富」という言葉に置き換えて考えてみる。私たちにとって「富」とは何か。やっぱりお金のような気がする。「お前の富を見せてくれ」と言われて、溜め込んだ通帳記入の残高を見せる事に、僕は恥ずかしさを覚えない。その残高の低さに恥ずかしさを覚えるくらいだ。
ところが、質問が「あなたの心はどこにあるのか」というものになると、気持ちは一転する。通帳をひろげて「ここに僕の心があります」は恥ずかしくて寂しい気持ちになるのだ。
「富はお金ですが、心は愛を大切にしています」と答えたい。しかし、聖書はそれをゆるさない。
「あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」なかなか厳しい言葉だ。

自分が自分自身であるために本当に大切なものはなにか。そのことを自分の周囲や外側に求めることは、実は本当に恐ろしい事だ。それは、携帯を忘れて来たときに自分の一部が失われたような恐怖を覚えるのに似ている。私たちは、自分の外側に自分を持ってしまう。所有することで存在を確認しようとしてしまう。
お金は奪われてしまう。お金だけでなく、愛についても、誰かに「愛される事」によって自分を確認しよとすると、愛してもらえなければ、愛してもらえなくなれば、やはり、自分を失うことになってしまう。

「天に富を積む」という言葉はなかなか難しい言葉だが、「自分の存在が誰にも奪われない形で意味あるものになる、存在そのものに意味があるように生きて行くこと」と言いかえると、少しイメージする事が出来るかもしれない。
そういう生き方にとって一番大切なものが「愛」、もう少し踏み込んで言うなら「愛する」ということなのだと思う。「愛せている存在」という喜びと価値。英語で言うならto haveという所有することで自分の存在価値を確認するのではなく、to beという存在そのものに自分の存在価値を見いだすこと。「持っている」から価値があるのではなく、存在そのもに価値があるという自分を育てて行く事を、この聖句はうながしているように思う。そして、そういう自分は神様との関係の中で育っていくのだとイエス様は言っているのだと思う。

あなたは、何を自分の富だと感じているだろう。その富のあるところにあなたの心があるのだ。
自分の「心のあるところ」について、足を止め、ゆっくりと考えてみる時を持つことも必要だなと改めて思う。

恵みと真理 ヨハネによる福音書 1章17節(聖書の話2)

先週に引き続き、聖書の話を少し。「恵みと真理」というタイトルだ。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
(ヨハネによる福音書 1章17節)

今回は、少し、聖書という書物について分析し、そこからこの聖句の意味を考えてみようと思う。

この聖書という書物は、なかなかおもしろい書物で、大きくは二つに別れている。旧約聖書と新約聖書だ。
時間的には旧約聖書のほうがずっと古い書物である。ヘブル語で書かれた旧約聖書は、ユダヤ人と神との歴史を通して、神の教えを書き記した書物だ。オールドテスタメント。古い契約。それは、神とユダヤの民との契約であり、その歴史だ。
一方、新約聖書はギリシャ語で書かれた書物である。聖書を大きく旧約と新約という二つに分ける人物がいる。イエスという一人の青年だ。イエス様は新約にしか登場しない。今から2000年くらい前に、30歳ぐらいで十字架にはりつけにされて死んで行った青年。彼の人生と教え、その弟子たちの生涯や弟子たちによって書かれた手紙によって新約聖書は構成されている。ニューテスタメント。新しい契約。新約では、イエス様を通して全ての人と神との間に契約が結ばれる。

書きあがり、編集されるまでに1000年以上を要したこの聖書は、創世記で始まり、ヨハネの黙示録で終わっている。世の始まりから、世の終わりまでが書かれていて、その中心にイエス様の誕生があるという構成になっている。
そのイエス様の「誕生から十字架での死、生涯と教え」を書き記しているのが新約聖書の最初にある4つの福音書だ。福音書とは英語でゴスペル。グッドニュース。いい知らせのことだ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。それぞれのグループが「イエス様の教え、あるいは存在そのものが、世の中にとっていい知らせだ!」と思って書き記した書物が「~による福音書」だ。だから、事柄によっては同じ出来事で4回書かれているものもある訳だ。
今回の聖句は、福音書の中では一番後に書かれたヨハネによる福音書の1章。つまり、書き出しの部分にある。

「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

みなさんは「モーセ」と聞いて、何を思い浮かべるだろう。僕は高校でキリスト教学の授業をしているが、学生に質問すると、だいたい二つの回答が返ってくる。「海を割った人」と「十戒」の二つだ。
今から3000年以上も前の人物であるモーセは、旧約聖書に登場する預言者であり、エジプトからユダヤ人が脱出したときのリーダーだ。民を導き、海を割ってエジプトを脱出するシーンが映画などになっていて、学生たちへのモーセに対する一問一答で「海を割った人」というイメージが出てくるという訳だ。
そして、もう一つのモーセのイメージ「十戒」。これも映画になっている。民のリーダーとして彼らを導くモーセが、神から授かるのが十戒である。
十戒は十の戒めからなっている「~をしてはならない」という教えだ。この教えがもとになり、さまざまな細かいルールがユダヤ教の中に作られていく。そして「律法」を守ることが神との契約を実現するための方法だと考えられ、律法を一生懸命守る人たちが神に喜ばれる存在だと考えられていく。
そんな旧約の世界にイエス様は登場する。
イエス様は、律法でがんじがらめになり、窮屈になってしまった世の中で、どこか不健全になってしまった神と人との関係に疑問を投げかける。本当に大切なのはそのような事ではない、という訳だ。
イエス様は、律法というルールではなく、自分が出来る全てで人を愛すること、隣人になることこそが大切なのだと主張し、実行する人生を送る。それは、時の権力者の否定となり、疎まれて殺されてしまう訳だが、彼を殺しても、伝わってしまった「本当のこと」を権力者たちは止めることは出来なかったのだろう。イエス様の教えはキリスト教となり、世界に広まることになるのだ。

もう一度聖句を読んでみよう。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

律法はイメージできるが、恵みと真理とは一体、何の事なのだろう。

まず、恵みとは何か。イエス様は、生涯を通して隣人を愛する事を実践した人物だ。わたしたちは本当に愛された時に自分が存在していることを肯定されているという実感を覚える。イエス様が愛した隣人たちの多くは、自分の存在を肯定できない問題を抱えている人たちだった。愛されているという恵みがイエス様から人々へ示されたということだと思う。また、イエス様のように愛そうとすると、「愛せない」という現実、自分の弱さや罪に出会ったりする。愛されているという恵みとは別に、愛そうとしても愛せないという自分の罪を、イエス様が十字架にかけられ、身代わりとなって下さったことで、すでに赦されているというもう一つの恵みが新約の世界には存在すると言える。
次に、真理とは何か。ある時、礼拝でジュネーブ教会信仰問答という書物の紹介があった。カルヴァンが書いたその問答の最初の質問は「人生の主な目的はなんですか」だそうだ。みなさんはこの質問にどう答えるだろう。カルヴァンの用意した答えは「神を知る事であります」だった。人生の主な目的は神を知ること。イエス様によって現れた真理とは、そういう類いの事柄ではないかと思う。律法を守ることによってではなく、イエス様に出会う事で、私たちは神のことを本当の意味で知る事が出来るのだとこの聖句は伝えているのではないだろうか。

律法はわたしたちに「生き方」は提示してくれるかもしれない。しかし、わたしたちの存在を根底から肯定してくれるのは、「生き方」やその結果における成果ではないように思う。「わたしたちがただ『生きている』ことにすでに意味がある」ということ「生きていてもいい」ということ、その発見こそが恵みであり、その恵みが偽りではないという確信こそ真理の発見なのではないだろうか。