デナリオン マタイによる福音書 20章1節~16節(デナリオン)(聖書の話16)

今回は随分長い聖句だ。天国をたとえた物語なのだが、まずは聖句そのものを味わってみてほしい。

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、9時ごろに行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者 から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デ ナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

マタイによる福音書 20章1節~16節

不思議なお話だ。随分理不尽だ。
「こんな理不尽はいやだなあ」と思う人も多いだろう。そんな人は、随分まじめな人で、しっかり勉強をして、宿題はきちんと やって、十分な準備をいつもしてきた、仕事もしっかり未来を予想して準備をする習慣がある人だったりするのかもしれない。「うわ、けっこうありがたい」と思った人もいるだろうか。普段から勤勉とは言えない、どちらかというと、落第すれすれの人生を歩んで来た人にはありがたい話に見えるかもしれない。

今回、この聖句を改めて学んで、二つのことが心を捉えた。
一つは、主人が、何回も「出かけて行った」という事実。5回だ。もう一つは、そこに立っていた人は皆「働きたい」と思っている人たちだったということ。
このお話は、天国についての話だが、僕は、人生のお話だなあとよく思う。主人は神様、労働者は私たち、仕事は生きる意味や使命、1日の労働賃金に相当する1デナリオンは人生に対する神の評価という感じだ。
「あなたたちに使命を与える」と、神様は何回も「出かけて来て」誘って下さる。若いときに、その使命を受取り、一生懸命働く人々もいる。「あいつはやることがあっていいなあ」「打ち込めていて幸せだなあ」と周囲は羨ましがったりする。けれど、ずっと人生の意味を求めて見つからなかったとしても、求め続けていれば、いつか神様に見つけてもらえるかもしれない。そして、「あなたたちに使命を与える」と言ってもらえる。しかも、働いた時間がどんなに短い時間だったとしても、同じ1デナリオンという一生を正当に評価してもらった金額を貰えるということだ。
人に遅れをとっている自分を思うとき、「あなたはずっと不安定な気持ちに耐えて求め続けた。そのことを認めてやる」と言ってくださるありがたさに気付く。反面、なぜ自分だけが頑張らないといけないんだなどと思ってしまう局面を思うとき「大変な仕事であっても、その充実と大きな成果は、あなたの心を随分いやしたはずだ」と諭されている気持ちにもなる。
何歳で読むか、どんな時期に読むかで、この聖句の心への響き方は随分違うだろう。ただ、人生のいつの時期にも、神様は素敵な瞬間を用意して下さっている。そして、その瞬間に気付かせるために「出かけて」来て下さるのだなと思う。いつの時も、あきらめずに求める人、その呼びかけに気が付き、受け入れられる人でいたいなと思う。

最後に、随分前に書いた、人生を見渡した曲の歌詞を紹介しようと思う。

「デナリオン」

バラ色の日々は人生の朝焼け 夢中になれることに 出会う頃です
背伸びするような 精一杯な 毎日 かさね 駆け抜けた

日の光浴びて人生が実を結ぶ 青さが抜けることも 喜びとなる
手でふれるような 確かな 毎日 かさね 味わっている

刈り入れの日々が人生の夕暮れが すてきだと思えるなら 幸せです
夢見てるような おだやかな 毎日 かさねられるなら いいな

「はればれ」とした気持ち コヘレトの言葉 3章12節~13節(はればれ)(聖書の話17)

わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだと
人だれもが飲み食いし その労苦によって満足するのは
神の賜物だと

コヘレトの言葉 3章12節~13節

今回の聖句は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」から選んだ。コヘレトというのは、王様で、いつも「空しい」という気持ちと戦っていた人物だ。聖書では珍しいと感じるくらい人生を嘆いている。勉強しても、遊びまくっても、王様として世界を正しく見極めようとしても、治めようとしても、結局空しい。全てが「風を追うような事」だと彼は嘆く。コヘレトの言葉は、その冒頭から空しさと絶望に満ちた嘆きが続く。
しかし、この3章でついに、コヘレトは悟ったように、「分かった!自分は神のようにすべてを知り、分かり、治めたいと思って来たけれど、それは無理なのだ!!」と言い始める。そして、幸福について、「わたしは知った!」と叫ぶ。
「喜び楽しんで一生を送ること」。 人間の幸福について彼が辿り着いた結論は、あまりにも当たり前で、幼稚にさえ見える。しかし、全ては分からなくても、喜ぶこと、楽しむことが出来るという自分を受け入れること、一生懸命働けば、疲れてお腹がすき、食事を美味しいと感じ、深い眠りが与えられのは、神様による贈り物だという発見は、コヘレトの毎日を大きく変え、彼を空しさから救ったのだった。

この聖句を学んでいて、ずいぶん前に「はればれ」という言葉をテーマに歌詞を考えた時のことを思い出した。自分の心の中に「はればれとした気持ち」を探しに行って、大人になってから「はればれとした気持ち」をほとんど感じていないことに気が付いて愕然とした。
中学や高校のころは、目標を持ってスポーツに打ち込んだり、恋をして、その子のことをいつも考えて、一つの事がうまくいくと、世界が開けて、「すかっ」とした気持ちになれたのに。知らない事や分かっていない事が多くても、純粋に一生懸命に生きて行く中で感じたはればれとした気持ち。その気持ちもまた、神様の賜物、神様から贈られたものなのだと改めて気付かされた。
自分の力で人生を動かそうとやっきになって、無力を痛感して空しさを覚える。はればれとしない私たちの心には、「神のようになりたい」と望むことで空しさに捕まったコヘレトと同じ嘆きが見え隠れしている。

みんさんが今、はればれとした気持ちになかなかなれないとしたら、そこには自分の分を超えた思い上がりや、小さな幸せを喜べないかたくなな心が隠れているのかもしれない。
一生懸命過ごした一日の終わりに、そのがんばりを褒めてあげること、疲れて眠りに落ちる幸せをちゃんと噛み締められること、そんな心をもっていたいなと思う。はればれと今日を生きられますように。「はればれ」という曲の歌詞を紹介する。

「はればれ」

はればれとした気持ちで走る
はればれとした夜明けの道を
ライバルだったあいつの家 あの頃よく迎えに行った
グランドで息を切らして 競い合ったりした授業前

はればれとした未来を描く
はればれとした恋を実らせ
初めての告白は 忍び込んだ夜の校庭
時間を忘れて過ごして 夜更けに送って行って怒られた

迷いが生まれ曇りそうな毎日を今
あいつは元気でやってるか あの子は幸せになったか
はればれと今日を生きよう
はればれと明日も上を向いて僕ら

はればれとした歌を歌おう
はればれとした空を見上げて
メロディーに誘われて 言葉はいつも溢れた
何もないけれど嘘もなく 誰かに届くはずと信じられた

迷いが生まれ曇りそうな毎日を今
伝えるべき言葉を僕は 飲み込んでないか
はればれと今日を生きよう はればれと僕らは行こう
はればれと今を生きよう はればれと僕らはやろう
はればれと愛を歌おう はればれと明日も上を向いて僕ら

互いに愛しあいなさい ヨハネによる福音書 13章1節(最後まで優しくなかった)(聖書の話18)

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

(ヨハネによる福音書 13章1節)

今回の聖句は、イエス様が十字架につく前夜の出来事、「最後の晩餐」を描いた聖書箇所の冒頭部分にあたる。イエス様が弟子たちと共に過ごした最後の夜だ。最後であることに気がついていたイエス様は、この夜、弟子達に遺言とも言えるメッセージを残している。

しかし、私たちは、多くの場合、自分の未来が見えているわけではない。別れの時はいつも唐突に訪れる。阪神淡路大震災が起こった後、僕はある曲を作った。「最後まで優しくなかった」という曲だ。まずは、その詞を紹介しよう。

「最後まで優しくなかった」

国道沿いにあった君の家で 別れになったあの日も喧嘩した
最後まで優しくなかった
突然電話が通じなくなって ふいにおしまいが僕らを襲った
最後まで優しくなかった

いったい誰が気付くのだろう いつが最後の時かなんて

壊れたビルは綺麗になくなって 僕の後悔は行き場をなくした
最後まで優しくなかった
街は新しい景色を手に入れ 僕に新しいものは何もなく
最後まで優しくなかった

いったい誰が気付くのだろう いつが最後の時かなんて
いったい何を築いただろう 僅かな時間の全てで
ずっとずっとあると思った いつまでも続くと思った
いったい誰が気付くのだろう いつが最後の時かなんて
いったい誰が

震災の時、僕は京都にいて、家族や恋人を失ったわけではなかった。それでも、友達のお父さんが亡くなったり、すぐ隣には、全く理解できないような突然のお別れが実際に起こっていた。この詞は直接震災を歌ったものではないけれど、非常に強く、当時の状況に影響を受けた詞だとも言える。

わたし達には災害を予知することは出来ない。それ以前に、自分がいつ死んでしまうかを知ることは出来ない。いつやってくるか分からない別れに、後悔を残さない為に私たちは何をすればいいのだろう。
最後の夜、イエス様の弟子達への遺言は「互いに愛し合いなさい」だった。なにか、きれい事のような、力の無い言葉に感じる人もいるかもしれない。けれど、この目に見えない不確かな行いこそが、震災後の復興において、もっとも力となり、今なお、人々が語ろうとする出来事だったとも言える。東日本大震災においてもそれは同じことだ。苦しみの中で助け合い、愛し合うことで苦難を乗り越えていく人間の姿だけが、あの悲惨な状況の中では希望につながる景色なのだと思う。

「今、隣にいる人が、隣にいるというそのことだけでも感謝すべきことだ」そんなことを考えながら生活するのはなかなか難しいかもしれない。ただ、今日は「互いに愛し合える」という喜びをかみしめる一日にしよう。そんなことを思った。

この花の一つほどにも マタイによる福音書 6章29節(聖書の話19)

しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

マタイによる福音書 6章29節

今回の聖句に登場する「ソロモン」は、古代イスラエル(イスラエル王国)の3代目の王様です。ダビデの息子であり初めてエルサレム神殿を築いた人物。イスラエル王国が最も繁栄した時代の王と言えます。 一方、「この花」とは野の花のことです。 野に咲く小さな花の美しさに最高の繁栄の中にあったソロモン以上の美しさを認めるというのが今日の聖句です。

神様が私たちに与えている美しさについて、高校で17歳、18歳の学生たちを見ていると、毎日のように感じさせられることがあります。若さを伴って、一所懸命生きていること、そのまぶしさが教室に溢れています。ましてや、学園祭の時期など、そのステージの上に繰り広げられるドラマと学生の表情を本当に美しいと感じる瞬間がたくさんあります。 湧き上がる内面的な奇跡のような美しさに何度も感動したりします。

その美しさは、「若さ」や「容姿」に支えられているのでしょうか。

僕自身、もう少し若いときには、目鼻立ちが整っていること、見た目の美しさに、今よりもっと心を奪われがちだったように思います。リーダーシップを発揮し、中心で頑張る学生に目が行きがちだったかもしれません。けれど、年を重ねていくと、今まで気が付かなった美しさに目が行くようになりました。バラやユリではなく野に咲く小さな花にも気が付ける時が少し増えたように思うのです。
横着をせずにひたむきに学問に取り組む姿や、純粋に喜びを表現する素直な表情に「美しさ」を感じるのです。それは、「この人はきれいな心だな」と思う瞬間なのかもしれません。
一人一人の学生がそれぞれに輝く瞬間を持っているのは確かなことです。なかなか難しいことですが、その輝きを見出し、伸ばすことが恐らく教育者に求められていることなのだと思います。そして、学生だけでなく、年齢や性別を超えたすべての人の中に、実は「美しさ」を見つけることができるというのが、今日の聖句の語っているところでしょう。

わたしたちにもともと与えられている美しさとは何でしょう。

聖書を読むと「思い悩むな 大丈夫、神様が守ってくださる。」というメッセージの中で、今日の聖句は語られています。何を着ようか、何を食べようか、そんな心配で命を憂うなと聖書は語ります。生きているということを肯定することが、この聖句の根底にあるように思います。「あなたは、あなたのままで、すでに美しいものとして創られ、そして神様に愛されている。だから安心して一生懸命生きなさい」というメッセージを感じるのです。

美しさの一つは、「一生懸命生きる」という姿だと思います。自分に与えられている命の可能性を精一杯に使おうとする姿だと思います。だから、職人の背中に、おじいさんやおばあさんの表情やちょっとした所作に、私たちは「美しさ」を感じるのかもしれません。そして、もう一つは、「愛する」という行為ではないでしょうか。相手のことを考えて動いている人に、小さな思いやりの中に、人間の美しさを感じます。

わたしたちは、神様に愛する力を与えられて創られているのだと思います。すべての人を愛せるとか、完璧な愛とかではなく、小さな小さな力でしょう。それでも、愛する喜びを感じる心を与えられていると思うのです。
不完全であっても、一生懸命生きる、一生懸命愛そうとする、その時に神様が足りない部分を補ってくださる。その神様からの愛を疑わずに受け取るときに、野の花のような美しさが私たちにも与えられると言うことだ思います。そのことを信じて自分の精一杯で今日を生きられる人でありたいと思います。

君は愛されるため生まれた ヨハネの手紙 1 4章7節(きみは愛されるため生まれた)(聖書の話20)

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」

(ヨハネの手紙 一 4章7節)

今日の聖句は、ある意味キリスト教そのものを示す言葉ではないかと僕は思う。「愛」こそが、イエス様が伝えようとしたことの全てだと思うからだ。
イエス様が無実の罪で十字架にかかり、死ぬ事で、この世界に残したものは、「罪の赦し」だった。そこにはユダヤ教の宗教観が大きく関わっている。罪を赦すのは神様であり、赦される方法は神様への生け贄だという価値観。生け贄を神様に捧げる習慣や価値観がない日本に住む私たちにとって、キリスト教が伝えようとする愛を理解するのは難しいかもしれない。しかし、少し無理をして、その価値観をイメージしながらイエス様の生涯を学ぶと、キリスト教の伝えようとしている愛が分かってくる。それは、私たちが人生で罪を犯してしまった時、その罪を全て赦して、もう一度人生を歩むチャンスが、イエス様の十字架によって既に全ての人に与えられているという愛だ。

「不気味だな」と思う人も多いかもしれないなあと思う。2000年も前に十字架で死んだ青年の死が、自分の罪を赦すための生け贄だったと信じて、救われたと喜ぶ感覚に違和感を覚える人は多いだろう。「ほら、神様が私たちを愛してくれている!」と言われても、「うーん」という感じかもしれない。

今日の聖句は、その愛を実感する方法を伝えている。私たちに与えられている神様からの愛は、多くの場合、人を介して私たちのもとにやってくると僕は思う。私たちは、心から信頼できる友達に、生涯を共に歩むパートナーに、そして、愛して止まない自分の子どもに生涯の中で出会う。それは、無条件で愛してしまうほど愛おしい存在であり、不十分で、不完全であったとしても、「愛する」喜びを私たちは経験する。それは確かな事だ。
少しでも愛せたとき、そこには「幸せ」がある。そして、「愛する」こと「愛せる」ことは、「愛されている」ことに確信を与えてくれる。
愛するという実践の中で、神様が、愛し合う私たちを支えていることを知ることができる、と今日の聖句は言う。互いに愛し合えたとき、私たちが愛しあえるのは、神様に愛されたからだ、ということに気がつけると言うのだ。
神様は、私たちを愛して、この世に送り出して下さっている。どんなことが起こっても、絶望しないように愛を注いでいてくださる。不確かで疑いたくなる日もあるだろう。しかし、同時に、その言葉の力強さに魅力を感じ、励まされるのも事実だ。

今回は韓国で作られて、日本でも訳されて、広く歌われるようになった「きみは愛されるためうまれた」という曲の歌詞を紹介しようと思う。僕は日本で発売された同名タイトルのアルバムに「原田博行 with SIESTA」として参加して、この歌を歌わせてもらっている。歌う事で、不安は安心にかわり、疑いは信頼へとかわって行くから不思議だ。

「きみは愛されるため生まれた」(作詞、作曲のイ・ミンソプ公認訳)

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ
きみの存在がわたしには どれほどおおきな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている
きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている

きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている

「赦し」という大逆転 ヨハネによる福音書 8章1節~11節(聖書の話21)

「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

ヨハネによる福音書、8章1節~11節

今回の物語は民衆に受け入れられ始めたイエス様を邪魔に感じている「律法学者たちやファリサイ派」というエリート集団の思惑の中で進められます。エリート集団は姦淫の罪を犯した女性の処遇をイエス様に尋ねます。もちろん悪意のある質問です。考えられるイエス様の答えは二つ。一つは「それならば死刑だ。皆で石打ちの刑に処せばいい」、もう一つは「その女を殺してはいけない」。
死刑を勧めた場合、イエス様の教えに集まった民衆はがっかりする。かたや、女を殺してはいけないとはっきり言ってしまうと、それは法律違反であり、イエス様を訴えることが可能になります。しかし、イエス様はそのどちらも口にはしません。かがみ込んで地面に何かを書き始めるのです。 授業で高校生にその動きについて、イエスの気持ちを予想してもらうと、「困っている」「いじけた」「法律を思い出している」「トンチがひらめくのを待っている」など、予想もしない答えが返ってきます。
このことに関する、加藤常昭先生の注解は見事です。「神も主イエスも私どもが声をかけても返事をなさらない時があると言うことを知らなければならない。」と先生は書いています。また、「私どもの祈りは答えられない時がある。私どもの問いかけは無視される時がある」とも。
つまり、イエス様は沈黙を持って、問いかける者に明確に答えているということになります。イエス様の側には、最初から迷いなどない。恐れているわけでも、いじけているわけでも、困っているわけでもない。答えるに値しないことだと無視し、対話を拒否しているのだと。 私は、祈りの中で「神様どうしてお答えにならないのですか」「なぜ、黙ったままなのですか」という問いを何回も発した経験があります。この問いは、特に自分が勝手に答えを用意して、神様に同意して欲しい時によく起こるように思います。ところが沈黙です。これはなかなかまずい展開です。本当に落ち着いて、自分のエゴを捨てて、耳を傾けると、耳の痛い答えが返ってくるパターンです。
今回のイエス様の答えは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というものでした。予想された二つの答えではない、まさに耳の痛い答えです。

さて、私たちはこの場所にいたら石を投げるでしょうか。授業でその質問をすると、ほとんどの生徒は投げないと答えます。でもそうでしょうか。「僕は投げると思う」と私が言うと、少し意外そうな表情を生徒たちはします。私は、この場所にいたら石を投げたと思います。ただし、条件があって、誰か一人が最初に投げてくれたらです。誰か一人が石を投げたら、私も夢中で投げただろうと思うのです。合法的に人を殺せることに夢中になり、この街から悪を追放している正義に酔いしれて、投げただろうと思うのです。だって、法律で彼女は間違いなく死刑なのですから。イエス様が、「この街に罪を残しておいてはいけない、全員で、この人を裁こう」と力強く叫ばれたらなおのことです。「それはおかしい!」とは絶対に言わなかった、あるいは、言えなかったと思うのです。
この聖句において、自分を民衆の中に置いて読む時、私たちは、石を持って投げようとしている時にイエス様の言葉を聞いたと想像するべきだと思います。親子でその場所に来ていた人もいたかもしれません。「さあ、おやじ、一緒に投げよう!」と父を見たら、父が石を置いて帰っていく姿を息子は見たかもしれない。そして、我に返って、自分も石を置いてその場所を後にしたのでしょう。そういうギリギリのところで石は投げられなかったのだと思うのです。もし、無知な子どもが一つ目の石を投げたら、全員が一斉に石を投げたかもしれない緊張の中で、イエス様の言葉が響いて、奇跡的に一つ目の石は投げられることが無かったのだと思うのです。
とにかく石は投げられませんでした。そして、全ての人が帰っていきました。最後に残ったのは女とイエス様です。
実は、誰もいなくなった時、女は、背中を向けているイエス様に気付かれないように逃げてしまうことが出来たと思います。しかし、女は逃げませんでした。彼女は待っていました。石打ちの刑で殺される寸前にそれが中止になりそうなその状態の中で、最後のイエス様の言葉をただ待っていたのです。なぜ、彼女は逃げなかったのでしょう。なぜ、逃げることを思いつかなかったのでしょう。それは、おそらく、彼女が自分の死刑を受け入れていたからなのだと学んでいく中で気がつきました。自分の犯した罪で石打ちの刑に処せられることを彼女は覚悟していた。そして、最後の一人となったイエス様が自分にどのような態度をとり、どのような言葉を投げ掛けるのかを静かに待っていたのだと思うのです。
イエス様の言葉は彼女にとって意外だっただろうと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
なぜイエス様は彼女を赦したのでしょう。イエス様も自分に罪があるから石を投げなかったのでしょうか。もしそうなら、この話は聖書に載せる価値がまったくない物語だと私は思います。「自分も含め、みんな悪いことをするものだから、赦しあいましょう」そんなことをこの聖句は伝えているのではありません。
最後のイエス様の言葉を聞いたのは女だけということになります。つまり、この経験をした女自身が、後、イエス様との出来事をキリスト教が形成されていく集団の中で話したということでしょう。彼女は、「もう罪を犯してはならない」というイエス様の教えを守った。守っただけでなく、その言葉の意味を深いところで理解し、キリスト教徒となっていったのだと思うのです。
自分の罪は死刑に値するということを受け入れていた彼女は、どのような意味でイエス様が自分を赦したのかをその日には理解しなかったでしょう。しかし、しばらくして、イエス様が十字架につけられて殺されるという事実を知ることになります。無実の罪によって十字架につけられたイエス様の死を彼女ははっきりと自分の身代わりとしての死だと感じたのだと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。」と言うイエス様の言葉の後ろに、「私があなたの代わりに十字架につくから、心配しないでいい」という意味が隠されていたことに、彼女は気がついたのです。だから、自分の経験したことを語り続けたのではないでしょうか。そして、聖書にこの物語は書き加えられたのだと思うのです。

罪の裁きは、なし崩し的にごまかされた訳ではなかった。その裁きはイエス様の十字架によって確かに行われ、償われた。そのことを見逃してはいけません。
イエス様が罪を赦す人々は、本当に心から自分の罪を認めている人々です。誰もいなくなった逃げることが可能な状況の中で、罪を認め、最後の一人であるイエス様に、石で打ち殺される覚悟をしていたからこそ、女は赦されたのです。そして、二度と罪を犯さなかったのだと思います。彼女はイエス様に赦されて生まれ変わった。復活をした。絶望と悔いの終点で希望の大逆転が起こったのだと思うのです。
イエス様によって体験する大逆転。その大逆転は、私たち一人一人に与えられている希望なのだと思います。この物語のどこに自分を発見するか。罪を犯さずには生きていけない私たちは女の中にこそ自分を見出すべきなのかもしれません。