風はおもいのままに吹く ヨハネによる福音書 3章8節(聖書の話27)

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

(ヨハネによる福音書3章8節)

僕にとっては、表現として、言葉として、すでに魅力的な聖句である。確かにわたしたちは「風」を感じる事はできる。しかし、本当はその風がどこで生まれ、どこで消えてしまうのかを知らない。「風はおもいのままに吹く」という言葉に、物事の本質が隠されている予感と自由の香りが漂う。

僕が高校で行っている授業の一年間のテーマは「生命(いのち)」なのだが、毎年、この聖句を自分のキリスト教学の授業を説明するために紹介する。生命について考える事は「風に思いを巡らせるようなこと」「答えのないことについて考えること」だと思うのだ。今年度の授業も始まったこの時期、いい機会なので、この聖句を味わってみることにした。

この聖句はニコデモというファリサイ派の議員とイエス様の対話の中で、イエス様の言葉として紹介されている。30歳くらいだったと思われるイエス様より、随分年上で、社会的にも地位があったであろうニコデモは、「永遠の命」が欲しくて、イエス様に頭を下げて、教えを請う。しかし、イエス様にかなり厳しいことを言われることになる。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか」(ヨハネによる福音書3章10節)。こてんぱんなのである。文脈で理解すると、「風を感じる事ができてもその全ては分からないように、神の世界のこと、霊の世界のことはお前にはわからないのだ」とイエス様はニコデモに伝えようとしておられる事になる。

僕が、この聖句に魅力を感じたのは、自分の命が風のように自由に飛び回るイメージが湧いたからかもしれない。しかし、聖句は風を感じる受け手としてわたしたちを位置付けている。わたしたちに全てを見せず、自由に吹いているのは神の側にある者たちだ。永遠の命が欲しい、天国のことを知りたい、命の不思議を理解したい。そういったわたしたちの欲求を、イエス様は一蹴する。

ギリシャ語でもヘブライ語でも風と息と霊は一つの言葉で言い表される。なので、「風の音を聞く」という表現には、「霊の声を聞く」というようなニュアンスがあるらしい。

はたと、全てを知ることは出来ないが、霊の声を聞くことは出来るのだと気がついた。わたしたちは霊の声を聞くことが出来る。しかも、かすかに聞き取れるとか、不確かだがそうかも知れないというような状況ではなく、はっきりと聞く事ができる。なぜなら、それはイエス様の口からしっかりと語られるからだ。
今回の聖句が含まれるヨハネによる福音書の3章を読むと、年をとって新たに生まれる事など無理だと嘆くニコデモにイエス様は、「水と霊によって新しく生まれることで神の国に入れる」と伝えようとされている。
注解書を読むと「水と霊」はバプテスマのことを指すという解説に出会う。洗礼によって信仰を授けるときにキリスト教では浸水を行うのだ。
もちろん、「はっきり言っておく」とイエス様が語り出しても、難しくて分からないことだらけなことも多い。それでも、人の口から発せられる言葉を聞き、理解する事は、神様からの声を魂で感じ理解する事に比べれば、随分易しいことだと思うのだ。そのためにわたしは来たのだとイエス様は言う。わたしたちには捕まえることが出来ない自由に吹く風をその体にとどめて、そこに立って下さる。わたしたちはその声を聞くだけでいいのだ。そして、その声を聞くことによって、少しずつ変えられて行くように思うのだ。霊によって生まれる者へと変えられて行くように思うのだ。

わたしたちは確かに今「生命」を与えられている。僕も、自分が生きているということ、自分の中に生命があるということを確信している。けれど、その生命がどこから来てどこへ行くのかを知る事はできない。
イエス様の声に耳を傾け続ける事で、いつか、わたしたちも霊から生まれたものとして、最初に感じた、風のように自由に飛び回ることを許されるのかもしれない。そんなことを思った。

待ち望む マルコによる福音書 14章36節(聖書の話28)

「こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」

(マルコによる福音書 14章36節)

この間、久しぶりに「Waiting for a chance」という曲を歌った。10年以上前に書いた曲だ。50歳も近づき、30代の頃とは随分歌詞の見え方も変わっていることに気付く。未来の描き方も変わるからなのだろう。
「Waiting for a chance」を和訳アプリなどで訳すと「チャンスを待っている」という訳が出てくる。「waiting」で「待機」という訳も。でも、なんだかしっくりこないなと思っていた時、その曲のタイトルを、「待ち望む」という気分で歌うのは、なかなかいいなあと感じる文章に出会った。

ヘンリ・ナウエンの「待ち望むということ」という文章だ。

現代は待つ事を困難にした、と筆者は語る。待てない理由は、恐れがあるからだ。変わり続けなければいけない、攻め続けなければいけないという強迫観念がわたしたちの時代にはあり、そのことが、待つ事への恐怖を大きくしているという分析は、なかなか鋭いものだと感じる。自分自身も、その恐れによって「待てない」ということがしばしばある。
何もせずにいることと「待ち望む」こととは大きく違う。筆者は聖書の登場人物たちを例にあげ、こう語る。「待っている人々はとても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今いるところで育ちつつあることをよく知っていました。まさにここに、待つことの秘訣があります。」(ヘンリ・ナウエン/わが家への道/工藤信夫訳)
未来を自分の思い通りにしようとする「願望」は、それが叶わないことへの恐怖を生み、待つ事を難しくする。しかし、神との約束の実現を信頼する「希望」は、未来に対する開かれた態度を生み、待ち望むことに力を与える。待ち望むことは、今を生きることに繋がる。
ヘンリ・ナウエンの語る「待ち望む」ことは、随分積極的だ。

表現者の友達にこの話をすると、「人事を尽くして天命を待つ、やな?」というシンプルな答えが返ってきた。確かにそうだ。自分の作品へのアイデアを探して探しぬいて、くり返しイメージを組み立てて、その努力の先で、新しい作品が生まれてくるのをずっと待っている。絞り出すようにもがいてみても、結局は待つしかないのだ。創造という行為は、宗教的な行為だなと思う。開かれた態度で臨むときに、たとえ予想外な結果であっても、生まれて来た作品を受け入れることが出来る。

今回の聖句は十字架にかかる直前に、ゲツセマネでイエス様が神様に祈った時の言葉だ。願望と希望の間で揺れ動く心が読み取れる。この後、弟子の一人、ユダに裏切られ、十字架につけられ、死ぬことになるイエス様。十字架にかけられたイエス様は完全に受け身だ。もはや、なにもすることが出来ない。しかし、その中にあって、イエス様は「積極的に今を生きている」と感じさせられる。それは、全幅の信頼を神に寄せて、自分の死の意味を神に委ねて「待ち望む」姿なのだと思う。

絶望を越える希望があるということを信じて、待ち望める人でいたいなと思った。

目を上げれば 詩編 121篇1節~2節(目を上げれば)(聖書の話29)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

(詩編 121篇1~2節)

今回の聖句が伝えているのは、視点の変換とその先に必ず見つかる希望への約束だ。
絶望の中にあって、閉じてしまった世界を動かし、そこから抜け出すためには、見ていなかったものに目を注ぐ必要がある。
うつむいてしまっている自分を奮い立たせて顔を上げ、やってくる助けを受け取る準備をしろと聖句は言う。そして、必ず、神からの助けは来るのだという強い信仰が感じ取れる。

それは、本当のことだろうか。どんなに望んでも助けがこない経験をした人も沢山いるのではないだろうか。しかし、同時に、何も状況は変わらないのに、自分の物事への見方が変わる事で、全てが解決したり、解決の糸口をつかむ経験をする事も事実だ。
わたしたちは、知らない間にうつむいてしまってはいないだろうか。何かにおびえて目を閉じたり、疑いの心で本当のことを見失ったりしてはいないだろうか。

目を上げよう。

それは、小さな変化かもしれないけれど、きっと、新しい発見があるように思う。「目を上げれば」という曲を書いた。今回は、その歌詞を紹介したいと思う。

「目を上げれば」

出来ない事ばかりで情けなくなってる 時間だけが過ぎてく
抱えきれないくせに強がりな僕は  助けて欲しい事を 本当に伝えようとしたかな

誰かがそばにいて 誰かと目が合って
笑い合える幸せに気付けば やがて全てはかわる

進まない毎日が嫌になってくる 約束は置き去りに
うまくいかない事に焦ってる僕を  取り囲むものは 本当に駄目な事ばかりかな

誰かがそばにいて 誰かと目が合って
愛し合える幸せに気付けば やがて全てはかわる

難しいことじゃない 沈む思い断ち切って 目を上げれば

今 君ががそばにいて 今 君と目が合って
笑い合える幸せに気付いて 確かに全てはかわる
誰かがそばにいて 誰かと目が合って
愛し合える幸せに気付けば 確かに全てはかわる

神様から響いてくるもの 詩編 19章2節~5節(聖書の話30)

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

(詩編19章2節~5節)

僕は同志社高校でキリスト教学の授業を担当させてもらっている。ここ数年、キリスト教学特論というゼミのような選択授業が開講されていて、その授業で日本人の宗教観について学ぶ機会を得ている。日本古来の八百万の神を信じる信仰やアニミズムについて学生たちが発表するのだが、非常に興味深く思う事は、唯一神のキリスト教よりも、日本古来の信仰に、より親しみを覚えるという学生が多い事だ。
四季に恵まれ、自然が人間の生活に寄り添うこの国においては、神様を優しくただそこここに存在するものとして理解する方がしっくり来るのかもしれない。対して、砂漠の世界から生まれてきたキリスト教が感じ取る神様は、その生活を崩壊させるような自然の姿に似て、時に厳しく、裁きをもって人間に接してくる訳で、少し怖いし、面倒くさいものなのかもしれない。そういう意味では、キリスト教の神様は、日本の風土にはなじまないという意見も頷ける。

さて、今回の聖句だが、注解書などを読むと、「宇宙に与えられた神的秩序の賛美」である、というような表現が目につく。「古代世界の人は自然の中の音に耳を澄ましてそこに神の言葉を得てきた」のだという。現代の人々は、その言葉を聴き取る力を失っているという解説もある。
事実、わたしたちは自然に耳を澄まし何かを聴き取る力を失ってきているように思う。日本の宗教観へ共感する学生以上に、神様などいないと答える学生の多さには驚かされる。そして、何よりも、真実はどこにあるかを探求する事自体に興味がない人が増えているように思えるのだ。

経済的な安定が約束されているならば特に真実など必要がないという感覚。あるいは、世界は全て相対的であり自分にとっての真実があるに過ぎないという考え方。自分に一番都合のいい宗教を必要に応じてその都度選択し、社会の中で上手く立ち振る舞えればそれでいいという考え方。

けれど、本当は神様がいるかもしれないのだ。絶対的なことが存在するかもしれないのだ。全ての人にとっての真実があるかもしれないのだ。そう思うとやはり探求したいと僕は思ってしまう。そして、真実を確信し、真実に繋がる喜びを享受したいと思うのだ。

今回の聖句は、絶対的な存在としての神様に圧倒される人間の心を歌っている。「わたしたちが神様を感じるのはいつか」という問いに、この聖句は答えてくれる。「神様の声を聞きたい、できればしっかりとした言葉で」と思ってもそれはなかなか叶わない。けれど、たとえば空を見上げることで、神様の存在を一瞬にして感じとることもある。それは、本来誰にでもある感覚だと思う。美しい夕日や満点の星空や空を切り裂く稲光に、わたしたちは足を止め見とれる。そこには、創造主への予感があり、畏怖があるのではないだろうか。
神様から響いてくるものに耳を済ますことができる人でいたいと思う。

小さな祈り マタイによる福音書 6章34節(小さな祈り)(聖書の話31)

今回は、日々の生活の中でよく思い出す聖句を選んだ。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(マタイによる福音書 6章34節)

好きな聖句だ。楽観的とはまた違う希望を感じる。一日の終わり、明日の事を心配しそうになるときに、「明日自らが思い悩む」という言葉に、なぜか励まされる。「未来が、自分の味方をしてくれる、一緒に思い悩んでくれる」そう感じるからかもしれない。それはつまり、未来を司る神様が、一緒にいて下さるという予感からくる希望だ。

僕は、比較的むちゃな締め切りを抱えてしまうことが多い仕事をしているのだが、「今日必ずやるべきこと」だけを、一生懸命やるようにしている。もちろん、計画することは大切だし、毎日、精一杯生きる事は前提だが、時々、まだ見ぬ未来におびえて、必要以上に心配をして、ドキドキしたり眠れなくなったりする。精一杯その日を生きたのに、そこには確かに成果は上がっているのに、その一日が終わるときに、感謝を忘れてしまうくらい不安に心を奪われてしまったりするのだ。

このブログでの「聖書の話」シリーズの第1回は、主の祈りを取り上げた。祈る方法と主の祈りの内容についてのお話だった。
「神様」と最初に神様に呼びかけ、祈る。そして、自分の祈りの言葉の最後に「本当に」という意味の「アーメン」という言葉を加える。そうすると、それは神への祈りとなり、どんな小さなことでも、どんなに下手な言葉でも、神は耳を傾けて下さるという祈る方法の話。あの回で、「主の祈り」は、本来、毎朝祈られるべき祈りだと書いた。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と生活に必要なものを毎朝一日分神様にお願いする。毎朝祈る事によって、生涯、神に守られる人生が約束されているということを学んだ。

私たちは、毎朝、今日一日を守り、豊かにしてくださいと祈る方法を与えられている。そのことを思う時、今回の聖句は、一日の終わりに私たちが何を思い、どのように祈ればいいかを教えてくれているように思う。

「小さな祈り」という曲を30代の初めのころに書いた。一日の終わりの曲だ。その歌詞を今回は紹介しようと思う。

小さな祈り

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 喜びもそして悲しみもとめどないけど

深い眠り与えられますようにと求めて
悪い夢を見ないようにと祈ろう

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 毎日はとても短く早すぎるけど

明日もまた良い日でありますようにと求めて
今日も守られて感謝しますと祈ろう

おやすみなさいと小さく祈ろう

自分を愛するように ルカによる福音書 10章25節~28節(アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー)(聖書の話32)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

(ルカによる福音書 10章25節~28節)

イエス様と律法の専門家の会話だ。二人の問答は「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいか」がテーマだ。
「永遠の命」とは何かという問いは非常に難しいのだが、一番いい形の命、目指すべき命のあり方くらいに考えてもらえばいいかもしれない。そして、その答えは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」だと聖句は告げている。この言葉は旧約聖書からの引用。神様からの教えが書かれた当時の聖書の中から、申命記6章5節とレビ記19章18節を抜き出し、律法の専門家が的確に即答しているのだ。イエス様は「正しい答えだ」と言う。当時の律法の中心にあった十戒を受け身的に守るのではなく、「愛する」という行為で積極的に生活する中で、自然に十戒を守るという視点の転換、律法主義からの脱却が感じられる問答だ。

さて、この答えには三つの愛する対象が出てくる。神、隣人、そして、自分だ。
神様に愛されていることを信じて、神様に感謝し、神様を愛する。そして自分を愛するように隣人を愛する。

最近、僕は、この聖句が当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではなくなってきているという現実があるのではないかと思うようになった。「自分を愛するように」という問題だ。現代は、なかなか自分を愛せないという人が増えて来ているのではないかと思うのだ。
人は愛するということと愛されるということを、時にごちゃ混ぜに考えてしまう、という話を、このブログでも何回か書いているが、この二つは全然違うことだ。愛されたいと思っている気持ちがどんなに強くても、愛されているという確信がなければ、愛する力にはなかなか繋がらなかったりする。
自分が愛さていることを信じられれば怖がらずに愛せるのに、一度愛されていることに疑いを持ってしまうと、なかなか愛することが出来ない。アイ・ラブ・ユーと伝えることに勇気が必要になってしまうのだ。自信が持てなくて、愛せなくなり、愛せないから愛されなくなる。悪循環の中で、自分を好きだと胸を張って言うこと、自分を肯定することが出来なくなって行く。

僕は友人から「原田は自分大好きやなあ、アイ・ラブ・ミーやな」とよく笑われる。本当に恵まれて愛されてきたからだと思う。最初は恥ずかしかったのだが、アイ・ラブ・ミーであることは現代においてはメッセージかもしれないと思うようになった。
一人きりでアイ・ラブ・ミーになれるほど、人は強くない。誰かからのユー・ラブ・ミーを信じられたときにアイ・ラブ・ミーということは生まれてくる。そしてそのためにはやっぱりアイ・ラブ・ユーを伝えななければならない。そんなことを考えていたとき、一緒に音楽をやっているメンバーから、「それこそ曲にすべきテーマやで」と言われた。

今回は「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」という曲の歌詞を紹介しようと思う。こっぱずかしい内容だが、歌っていうのは、不思議で、メロディーに助けられると、歌うことによって恥ずかしさが消えて、言葉が不思議と心に入ってきたりする。
お互いを指差しながら、この曲に合わせてお客さんが「アイ・ラブ・ユー♪」と歌ってくれる時、人って、本当は愛する事がこんなに好きなんだなと思うことがある。みんな本当に幸せそうな顔なのだ。ステージからのその景色はすごく素敵だ。ほんの少しの事で、悪循環は終わりを告げる。自分を愛するように隣人を愛せるようになれますように。

「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる

生まれてきた事の意味や 生きていく事の意味 そんなこと分からないけど
ありがとうは嬉しくて 君のことが大好きで 戦争なんか大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

僕らを創った何かはあるか 終わりの向こうは何か  その全て分からなくても
優しくなれたら幸せで 役に立つの大好きで  傷つける嘘大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる
アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

アイ・ラブ・ミー

アイ・ラブ・ユー ユー・ラブ・ミー アイ・ラブ・ミー

希望のある苦難 ローマの信徒への手紙 5章3節~4節(聖書の話33)

そればかりでなく苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

(ローマの信徒への手紙 5章3節~4節)

この聖句を書いているのはパウロという人だ。イエス様の直接の弟子ではなく、むしろイエス様の死後、弟子たちを迫害する側にいたユダヤ教徒だったパウロは、神秘体験の後、回心し、キリスト教徒として多くの手紙を聖書の中に残した人物だ。
パウロの文章は、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいという印象を僕は持っていたのだが、今回の聖句は受け入れやすく、魅力を感じる。ポジティブで、人生に役に立ちそうなにおいがしているからかもしれない。クリスチャンで無くとも納得出来る、普遍的な格言のようにも思える。

キリスト教とは何かということについて、書き記されたこの手紙の中で、今回の聖句は信仰生活の特徴について語っている箇所だ。その流れの中で神学的に語句の意味を探ってみた。
「苦難」は信仰の故にうける迫害、犠牲、痛苦。キリスト者に臨む特殊な艱難。
「忍耐」は信仰的に動揺しないこと。屈せず神の道を行う積極的行為。
「練達」はキリスト教徒がその信仰を試されることで得る信仰的確信。
「希望」は信仰によって義とされた者が終わりの日の輝かしい完成に連なるという希望。

イエス様を信じることで迫害されても屈せずにイエス様に従っていけば、どんどん救われている確信が強くなり、天国があること、天国へと導かれている事を喜べるようになるのだ、という感じだろうか。

語句の意味を理解すると、今回の聖句がきわめてキリスト教的な信仰者の生活へ向けられた言葉であることが分かって来た。イエス様の十字架での死と復活が自分の罪の身代わりだったことを信じ、その復活に置いて神様に救われ、自分がただしい者に変えられたことを信じる、「キリストによる信仰による義」をまず心から受け入れ、喜び、理解する、その先での信仰生活の話だ。

随分難しい話になってきた。しかし、パウロという人物をイメージしてこの言葉を読む時に、救われたという癒しから、信仰生活の実現の厳しさへと深まっていく日々に叫び声をあげている等身大のパウロの姿が見え隠れしていることに気付いた。キリスト者の苦難とは普通なら感じなくともよい苦難であり、その先に練達と希望があることをパウロは強く認識しており、それが信仰者の全てに約束されていることを伝えようとしているのだ。やっぱり、教義的で、厳しいイメージがあり、難しく、堅苦しいのだが、必死に自分に言い聞かせながら手紙を書いているパウロを思い描いて、パウロに出会えたような気分になった。

パウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたのは、おそらく30代に起こった回心から20年後くらい、三回目の伝道旅行の最中だったと思われる。つまり、だいたい50代の半ばくらいだったと推測される。今の僕とほぼ同年代。少し先輩だ。

この箇所は毎日の祈りであり、約束だ。自分を含めて、信仰者を励まし、導こうとするパウロは、決してこの言葉が実現していない信仰者を攻めているのではないだろう。しかし、同時に厳しい積極性を要求していることも事実だ。それは行為による確信を促すパウロの愛とも言える。

さて、私たちの人生には苦難と言えるようなものがあるだろうか。それは、人それぞれかもしれない。苦難だと感じている同じ出来事も別の人にとっては苦難ではないかもしれない。それは本当に個人差がある。しかし、同時に苦難のない人生もまた想像できない。おそらく私たちは人生の中で苦難に出会うことになるだろう。
その苦難には二種類あるのではないだろうか。「希望のある苦難」と「希望のない苦難」。

最後に残った語句として「誇り」について調べていて、ドイツのエルンスト・ケーゼマンの「人間は誇りにおいて自分が誰に属しているかを表明する」という解説を見つけた。
苦難は出来れば願い下げたいところだが、信仰者として救われて来た僕は、同時にこの「希望のある苦難」を、喜びを持って誇りとすることをパウロに勧められているのだと感じた。