小さな奇跡 マタイによる福音書 25章31節~40節(小さな奇跡)(聖書の話10)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

(マタイによる福音書 25章31節~40節)

この聖句はこの世の終わりの時についての記述だ。天国へ招かれる人々はどのような人かを例えたこの聖句。この世での私たちの行いの中で、神様が高く評価し、喜んで下さるのはどのようなことなのかが、この聖句には示されている。それは、何か大きな仕事をしたり、大成功をおさめたりすることではなく、小さい者への小さな親切だったりする。
その行い自体は難しいことではない。僕らの手の中にある日常的な事柄だ。毎日の中にある。でも、それを大切にし、実行する事は本当は難しいことなのだとも思う。
日々の中で出会う人をしっかりと愛する難しさ。私たちは、遠く離れた所で起こる大惨事に関心を示し、自分の出来る事をしようとしたり、手を差し伸べようとする。その一方で、近くにある悲しみや、隣にいる友の心の傷に気がつくことが出来ないこともしばしばだ。手を差し伸べる事に躊躇してしまっている自分を感じる事さえある。
しかし、それこそが、私たちが生きて行く上で神に要求されていることなのだ。

少し前に「小さな奇跡」という曲を書いた。今回はその歌詞を紹介しようと思う。今日の聖句が語る内容と共に、詞を感じてもらえると嬉しい。

「小さな奇跡」

世界を救うために  嵐を遠ざけ波を止める
そんな力 僕らにはない

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて世界さえ救うような奇跡

未来を変えるために  星を降らせ太陽を隠す
そんな力 僕らにはない

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて未来さえ変えるような奇跡

心が揺れて 瞳が動いて 涙流れて繋がって

ただ向き合って目の前のその人を愛する勇気だって
小さなそれは奇跡
やがて世界さえ救うような奇跡
未来さえ変えるような奇跡

信仰と天国 ヘブライ人への手紙 11章1節(Heaven)(聖書の話11)

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」

ヘブライ人への手紙 11章1節

今回は天国についての話をしよう。
あなたは天国をどのような所だと考えているだろう。死んだ後に行く場所だろうか。天使がいて、美しいお花畑を流れる川の横でハープを弾いている女性が見えたりするだろうか。美味しいものが自由に食べられる場所、美しい女性やかっこいい男性が沢山いる場所、望むことが全て叶う世界。
しかし、そうやっていろいろイメージしてみて、その場所に暮らす自分を想像してみると、その世界は実は退屈なのではないかと僕には思えてくる。

そんな退屈な世界が天国だとは僕は思わない。世の中で目にする天国の描写は、最高に刺激的で気持ちのいい瞬間を、人間の貧困な想像力で語ろうとした結果でしかないように思う。

「死後、天国へと登って行くことが人生の目的である。よく生きる事はよく死ぬことだ。」確かに、キリスト教にはそういう考えを促す部分がある。しかし、私たちに分かるのは生きている間に確かめられることだけだ。死んだ後の事は、どうやったって分からない。聖書は天国があると約束している。でも、そのことを生きたまま証明する事は出来ないという訳だ。

今回の聖書は言う。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」

論理的証明は出来ないが、感じることは出来る。経験が確信を導くことは起こる。私たちは生きている間には天国に行く事は出来ないのかもしれない。それでも、天国を予感することは出来るように思うのだ。僕は、時々、永遠が瞬間の中に落ちてくるということを経験したりする。素晴らしい音楽や芸術とふれあう時、友達の優しさや愛に出会う時、「奇跡」だと感じる様々な瞬間に永遠を感じたりする。それは、垣間見える天国的なものだと僕には思えるのだ。
「死ぬまでは本当には分からない。でも永遠に続いて欲しいと感じるこの瞬間の中に吸い込まれるような幸せが天国にはあるのかもな。」そんなことを感じながらHeavenという曲を作った。今回はその歌詞を味わってもらえればと思う。

「Heaven」

天国はこの世にあるって教えてくれた君 目に見えないけれど感じるのが本当の証
天使は気まぐれでも応援してくれる 前を向けるよほらキスしてハグして

Every day every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる

神様がそこに降り立って微笑む瞬間を 書き留めて歌おうとしたら嘘だけが残った
確かな気持ちだけなら僕は君に夢中 前を向けるよほらキスしてハグして

Every day every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

人生は不思議な糸で繋がった誰かと たぐり寄せ合って抱き合い
創り上げ 赦し合い 笑い合う 美しい毎日

Heaven knows, every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる
God only knows, every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

Every day every night 一つの愛求めてる
Every day every night 小さな命が生まれてる
Every day every night 君のこと考えてる
Every day every night 手を繋ぎ生きて行ける

生誕劇の宿屋の主人 ルカによる福音書 2章6節~7節(聖書の話12)

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

ルカによる福音書2章6節~7節

今回は、自分にとって一番正直なクリスマスについてのお話を紹介しようと思う。クリスマスによく教会学校なんかで子供たちによって演じられる、イエス様が生まれる夜までの出来事を描いた「生誕劇」についてのお話だ。

生誕劇の第1シーンは天使がイエス様の母となるマリアのところに訪れるというシーンから始まる。マリアは自分の前に現れた天使から、自分が神の子どもを身ごもっていることを伝えられる。その不思議で神秘的な天使からの告知を、マリアは神様からの言葉として信じ、素直に受け入れる。この第1シーンの登場人物は天使とマリア。
第2シーンは、マリアの夫のヨセフの夢の中に天使が現れるシーン。ヨセフもまた、天使によってマリアが神の子どもを身ごもっていることを知らされる。ヨセフにとって、辛く厳しい知らせだったと思うのだが、ヨセフは神様からの言葉としてその知らせを受け入れる。マリアがまずは一人きりで天使からの知らせを受け止めたように、夫ヨセフも神に委ねられた自分の役割を一人きりで受け止めている。この第2シーンの登場人物は天使とヨセフだ。
第3シーンは、当時の皇帝アウグストゥスからの勅令によって、住民登録のために、ヨセフとマリアが、ナザレという街から自分たちが生まれたベツレヘムという街へやってくるところから始まる。二人がベツレヘムにたどり着いてみると、登録の為に故郷に帰ってきた人たちで街はごったがえしていて、泊まる場所が見つからない。今夜にもマリアが子どもを産みそうだというのに、どこにも部屋を見つけられない。何軒目かの宿屋で「馬小屋なら空いているよ」と宿屋の主人に言われるというシーンだ。この第3シーンでは混雑する街の人をバックにヨセフとマリアと宿屋の主人の3人が登場する。
第4シーン、時間は少しさかのぼる。星を通して様々なことを知ることが出来る、いわゆる占星術の学者たちが「ユダヤ人の王がお生まれになったのではありませんか」とその時代のユダヤ人の王であるヘロデのところへと訪ねて来るシーンだ。もちろん星が知らせている「ユダヤ人の王」はヘロデ王の子どもではない。小さなベツレヘムという街の馬小屋で生まれるイエス様を知らせているのだ。当ての外れた占星術の学者たちはヘロデ王のもとを去り、「ユダヤ人の王」を探す旅に再び出かける。そして、行く先を示す星に導かれて、生まれたばかりのイエス様のいる第3シーンで出てきた馬小屋へとたどり着くのだ。第4シーンの登場人物は占星術の学者たちとヘロデ王。占星術の学者たちを導く動く星の役も時々ある。
第5シーンは、イエス様が生まれる夜に野宿をしている羊飼いたちのシーン。自分たちを救ってくれる「救い主」を待ち望んでいる羊飼いたちのところに天使たちが現れる。そして、「救い主」が今夜誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ていることを知らせる。羊飼いたちは喜び勇んで「救い主」を探しに出かける。第5シーンの登場人物は、羊飼いたちと天使たち。
最後のシーンはあの馬小屋の中だ。駆けつけた羊飼い、たどり着いた学者たち、彼らに囲まれてヨセフとマリア、そして飼い葉桶の中に幼子イエス様。そのすべてを見守る天使たち。救い主の誕生を祝う美しいシーンで生誕劇は幕を閉じる。

順番や登場人物の人数やシーンの数には差があるが、だいたいこのような物語として、生誕劇はクリスマスになると世界中の教会で演じられている。

僕の家はプロテスタントの教会で、高校生になるくらいまで、毎年クリスマスになると、教会学校で生誕劇をやらされた。当時牧師だった父、教会学校の先生である母、そして姉と妹。家族をあげて12月はクリスマス祝会の準備だ。僕が子どものころは自宅を開放して礼拝を行っていたような小さな単立教会だったから、毎年何かの役がまわってきた。結果的にマリア以外のほとんどの役をやることになった。

ある年、クリスマスが近づいてきた頃に、妹から興味深い提案があった。
「生誕劇でさあ、全員が自分のやりたい役を演じるのって無理かなあ」というものだった。「私は羊飼いがやりたいねん」と妹が言う。理由を聞くと「だって、ひたすらに待ってて、天使が知らせると疑いもせずに喜び勇んで駆けつけるんやで、その単純な感じが好きやし、そうありたいと思うんやんか」と言うのだ。妹が続ける。「お父さんは占星術の学者やと思うんやんかな、疑って、疑って、自分の力で真実にたどり着きたい、みたいなところあるやん」牧師も家族にかかるとめった切りである。「お母さんは多分天使やで、知らない間に大切なことを人に伝えてな、お知らせ運ぶ役がぴったりやろ」納得のいく解説である。小さな教会なので、この面白い話はすぐに広まった。マリアをやりたいと言う人、マリアを支えるヨセフをやりたいと言う人も現れた。
しかし、この計画は実現しなかった。教会に通う人たちが集まって、心からやりたい役を告白すれば「ヘロデ王」をやる人が見つかるわけがないのだ。
さて、僕はと言えば、「お兄ちゃんは何がやりたい」と言われて、随分困ってしまった。羊飼いほど単純じゃない、占星術の学者ほど熱心じゃない、天使なんてあり得ない、さすがにヘロデはやりたくない。「ほかにないの」と聞くと、「うーん、あとは宿屋の主人かなあ」と妹が言う。びっくりするくらいしっくりきたのを思い出す。「あ、俺、宿屋の主人がいいわ、めっちゃやりたい」妹は爆笑した後「うん、向いてるかもな」と言った。

ヨセフとマリアに馬小屋を貸した宿屋の主人。ゆっくりと聖書を読み返してみると、そんな宿屋の主人も「馬小屋なら空いているよ」というセリフも聖書の中には存在しないことが分かる。もしかしたら、ヨセフとマリアは勝手に馬小屋を使ったのかも知れない。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあるだけだ。それでも、僕はやっぱり宿屋の主人を演じたいなと思うのだ。
主人は世の中で戦っている。住民登録というめったにない商売のチャンスでてんやわんやの大忙しの中にいる。おそらく、自分が貸した馬小屋で生まれた赤ちゃんの誕生が2000年後も世界中で祝われるなんて、これっぽっちも思っていないだろう。そして、死ぬまで、自分が何をしたか知らないままだったと思うのだ。僕は彼が罪を犯したとは思わなかった。神様には随分失礼な話だが、ぎりぎりのところで、偶然にもヨセフとマリアをそして神の一人子の誕生を手伝った存在だったと感じたのだ。ことの真相を分かっていれば、自分が野宿をしてでも自分の部屋に泊まってもらうべきだった。大金で宿泊客を追い出して、スウィートルームを用意するべきだった。でも、彼がしたことは、最低の最低の最低限の親切だったと思うのだ。きっと清潔ではない、匂いだってする、眠ることも難しいような馬小屋を用意しただけだった。それでも、屋根があることでヨセフもマリアも少しは助かっただろうと思うのだ。
宿屋の主人は、この世の中と聖なる世界の境界線に立っている。自分の役割も分からずに、ぎりぎりのところでこの世に聖なるものを引き寄せる小さな仕事に携わった存在だ。
キリスト教学の講師をしながらシンガーソングライターとして音楽の仕事をしている僕は、この世の中が大好きで、この世の中での成功を夢見て一生懸命仕事をして、時には不信仰だとクリスチャンに怒られながら生活している。そんな僕にとって、宿屋の主人は魅力的な役だった訳だ。

今、このブログを読んで下さっている皆さんの中には、羊飼いのような人も、占星術の学者のような人も、天使のような人もおられるだろう。もしかしたら、マリアやヨセフのように特別なことを神から任されている人もおられるかもしれない。でも、多くの人は、宿屋の主人のように、自分の行いの意味さえ分からないで日々を過ごしているのではないかと思うのだ。僕らの日々の行いが、意味は分からなくとも、何か神様の役に立っているなら素敵だなと思いながら、クリスマスに、主であるイエス様の誕生を心からお祝いする想いを、皆さんと共有できるなら嬉しいなと思う。
メリークリスマス!よいクリスマスをお過ごし下さい!!

いつもそばに ルカによる福音書 24章32節(いつもそばに)(聖書の話13)

「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」

(ルカによる福音書 24章32節)

今回の聖句は、イエス様が十字架で死んでしまってから三日後に起こった、ある出来事の最後の部分だ。二人の弟子がエルサレムから少し離れたエマオという村へ歩いて行く途中に、復活したイエス様に出会うという出来事。その出来事の後に、二人がそのことを振り返った言葉だ。

物語の次第はこんな感じだ。
おそらく、弟子の二人は、死んでしまったイエス様への失望と、これからの人生への不安の中で、旅をしていたのだろう。そこへ、復活したイエス様が近づいてくる。「何の話をしているのですか?」と尋ねてくるのだ。「今、世の中で起こっている事をしらないのか!」と彼らはその人にイエス様の十字架での死を説明する。彼らにはその人がイエス様だと分からなかったのだ。聖書には「目が遮られて」とある。
イエス様は、「それは、こういうことだったのではないですか?」と自分の生涯について、旧約聖書の中に預言されていたことなどを用いて彼らに説明をする。目指す村に近づくまで、彼らは多くのことをイエス様と語り合ったようだ。二人は、別れを惜しみ、イエス様を引き止め、夕食を一緒にすることにする。イエス様がまるで十字架にかかる前日に自分たちにしてくれたように、彼らの前でパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らにお渡しになったときに、やっと二人は目の前にいるその人がイエス様であることに気がつくという物語だ。聖書には「二人の目が開け」とある。そして、その瞬間にイエス様の姿は見えなくなるのだ。
不思議なお話だ。

この聖句での説教の準備の時に、友達にこの聖句を読んでもらって、感想を聞いた。クリスチャンではない彼女は、「なんで分からんかったん?何が遮ってたん?なんで急に見えなくなったん?」と不思議そうだ。でも、ゆっくりと説明すると、「あ、分かった!イエス様は、いまも存在していて、こっちが気がつかへん時は人としてこっちにアプローチしてくるけど、つまり、外に存在しているけど、受け入れると、もう、自分の中に存在して、心の中に入ってしまうっていうことやな」と言うのだ。すごく信仰的な見解だったので驚いた。復活したイエス様の存在への柔らかい理解だと思った。

それにしても、この物語の二人の弟子は嬉しかっただろう。まるで、イエス様に初めて出会ったときのように、旅で出会った男からわくわくする話を聞かされ、自分たちが生涯をかけてついて行こうと思った男のことを久しぶりに希望一杯に聞かされたことだろうと思うのだ。
「確かにそうだ、この心の燃えるような感じはイエス様だ!」と気がついたその喜びの言葉が今日の聖句という訳だ。

「でも、わたしは心が燃えるような人に出会ったことないなあ」と彼女が言った。「もちろん、素敵な出会いも、恋も今までにあったけど、『心が燃える』っていうほどの出会いではないかも」というのだ。「うん、でも、クリスチャンは『心が燃える』ようにイエス様に出会うんやで」と説明し、僕が教会で歌うために今の僕の教会の牧師と一緒に作った歌の歌詞を読んでもらった。
「すごいなあ、想像力というか、妄想?が?」と彼女。イエス様はどんな人か。どんな人としてクリスチャンは感じているのか。そのことを歌った歌の歌詞を今回は紹介しようと思う。

エマオへの旅の途上で二人の弟子が感じた、自分の人生を喜びで満たしてくれるような出会い。全てを投げ打ってでもついて行きたいと思うような出会い、その復活のイエス様との出会いは2000年もの間、世界中で繰り返されてきたのだと思う。気付かれない存在の時には、外側から語りかけ、真実へと導いてくれようとする、そして、私たちの心が開かれると、それぞれの心の中へと入ってきてくださる。そうやって、イエス様は今も私たちを、あなたを、愛し続けてくださっているのだと思うのだ。

「いつもそばに」

君のために立ち止まる 見つけ出して 認めてくれる
君を心配して怒ってくれる ただ黙って 抱きしめてくれる
一緒にいたいと思ってくれる 今の君を君のままで

ずっと探しているその人は ほら 君の隣にいる
いつでも たとえどんな時も 愛してくれる
大丈夫だよ その人はいつも そばに

君が心から安心できる 怖がらず わがままを言える
君が涙を見せられる 嬉しい時会いたいと思う
素直に全てを打ち明けられる 今の君が君のままで

ずっと探しているその人は ほら 君の隣にいる
いつでも たとえどんな時も 愛してくれる
大丈夫だよ 君を見守っているよ

探しているその人が ほら 今 ここにいる
いつでも たとえどんな時も 愛してくれる
大丈夫だよ その人はいつも そばに

命に通じる門 マタイによる福音書 7章13節~14節(聖書の話14)

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

(マタイによる福音書 7章13節~14節)

「人生は意外とシンプルなものかもしれない」と思う事がある。今回の聖句を選んだ後、イギリスのバニヤンという人が書いた天路歴程という小説のことを思い出した。冒頭に、人生に絶望し、自分の歩む道を見失った主人公が、歩むべき道について伝道者に教えてもらうシーンがある。少し読んでみよう。

「その男は…ひどく心配そうに、伝道者を見つめて言った、私はどこへ逃れるべきでしょうか。すると伝道者はいかにも広々とした野原を指で示しながら言うのに、向こうのくぐり門が見えますか。男は言った、いいえ。それから相手が言った、向こうの輝く光が見えますか。『見えるように思います』と彼は言った。そこで伝道者は言った、あの光から目を離さないで、まっすぐにそこへ登って行きなさい。そうすればその門が見えるでしょう。そこで門を叩けば、どうすればよいか聞けるでしょう。」

非常にシンプルだ。「見えるように思う輝く光」に向かって、ただまっすぐ行けばいいと言うのだ。ところが、主人公が歩み始め、物語が進むと、実に色々な出来事や誘惑が起こる。広々とした道がカーブして行く場所では、まっすぐの道は非常に狭く、自分で判断しようとすると曲がりたくなったりする。また、鎖で繋がれた獅子が両脇にいる道があり、真ん中を歩けば、絶対に大丈夫なのだが、「危ない」と勝手に自分で判断してしまい、進めないといった具合だ。どの場合も、ただまっすぐ歩くことだけが正解だ。
私たちの日常にも、これと似た出来事を見いだすことがある。何かに取り組んでいる時、「きっとこうするのがいいのだろうな」「これが正しいな」と感じることがある。それは、「見えるように思う輝く光」だ。ところが、いろいろな困難や横着や不誠実が邪魔をして、思うように進まないということが起こるのだ。「こっちの方が楽やで」とか、「こっちの方が儲かるで」とか。心というのは、随分いろいろなことを囁いてくる。輝く光に向かって行けばいいと教えられたはずなのに、心に決めたはずなのに、自分に都合のいい言い訳を思いついて、光から目をそらし、道をそれてしまうのだ。
僕自身、いったんは派手に成功しても、その後には虚しさだけが残り、うまくいかないという結果に終わる沢山の出来事を経験してきた。思い返してみると「確かに、あの時、違和感に、あるいは不正に『目をつむった』」と気付かされる。そういう経験を思い出せる人は多いだろう。思い出せるということは、見えていた光から目をそらした瞬間、目を閉じてしまった瞬間を実は心がとらえているという事だろう。
「輝く光」を見ているのは心だ。そして、本当の意味で「輝く光」を見出し、それを見つめる心、それは良心と呼ばれるものだと思う。良心が濁ると心の目は光をつかまえる事ができなくなる。そして、信仰とは、その良心を鍛え、澄んだ目を維持することを助けてくれるものなのだと思う。
僕は牧師ではないので、キリスト教だけが、良心を鍛えてくれる宗教だ、などと言うつもりはない。ただ、少なくともイエス様が私たちに伝えた言葉の中には私たちの良心を奮い立たせ、「輝く光」をとらえる力を与えてくれるものが沢山あるとも思うのだ。今日の聖句もその一つと言えるだろう。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

滅びに通じる門と命に通じる門という二つの門。みなさんも人生が進む中で、何回もそのどちらの門を選ぶかという選択の場に立たされることだろう。どんな男性と付き合うのか、どんな仕事を選ぶのか。狭く、苦労が見えていても、この道を進みたいと感じる時、この聖句は勇気を与えてくれることだろう。
ただ、「輝く光」が見えていること、見えるように思えること、が大前提としてある。そのために必要なことは、静かに自分の心に聞きに行くことであり、祈りによって神の言葉に耳を傾けることだと思うのだ。
「神様、私の進むべき道を教えて下さい」と祈る時、あるいは、そういう祈りを持って聖書と向き合うときに、そこに示される道が見えてくる。それは、冒頭の物語で、伝道者が「広々とした野原を指でしめした」ように、私たちに示される。そして、私たちはその先に「輝く光が見えるように思う」という経験をするのだと思う。
処世術として、いつも狭い門を選んでいれば成功するというようなものではないだろう。輝く光に向かってまっすぐに歩もうとするときに、時には狭い門を選ばないといけない時がやってくるということだ。

命に通じる門。それは、苦難と困難を伴いながらも、豊かで愛のある人生を与えてくれる道へ通じる門だと私は思う。目を閉じる事なく、光に向ってただまっすぐに歩く。シンプルなルールだけれど難しいことだと思う。光を見つける心の目を鍛える事。襲ってくる疑いをぬぐい去って、信じてまっすぐ歩む事。失敗してはやり直しながら、そういう人生をみなさんが歩まれることを、また僕自身も歩んで行けること願う。