体のともし火は目 ルカによる福音書 11章33節~36節(KEY)(聖書の話35)

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

(ルカによる福音書 11章33~36節)

秋になると、職場の高校の学園祭があり、時々、演劇祭の審査員の依頼が舞い込む。丸一日かけて、3年生全クラスの演劇を審査員として観させてもらうことになる。大変だが、ものすごく刺激的でいろいろなことを感じる。
たまたま同じクラスになった面々が、全力で何かを作り上げていく学園祭。どのクラスにもそれぞれにドラマがある。爆笑をし、涙を流し、喧嘩をして、大もめにもめて。漏れ聞こえてくる大騒ぎの後、迎える本番。数ヶ月の間、真剣に取り組み、目指してきたその瞬間であるステージに立つ学生たちの姿を、いつも心から美しいと思う。それこそ、今日の聖句にあるように「澄んだ目で全身が明るい」と感じる。「一生懸命」に下心がなく、利害が無く、ただただ本気で取り組んでいるからかもしれない。学校という場所ならではの風景だとも思う。
本番までの数ヶ月の間に、多くの学生たちが人生を左右するような出会いや経験をする。偶然のように始まる友情や恋愛の中で、未来を語り、その語った未来の実現のために努力をする日々が始まったりする。
人生が進めば、もしかしたら、光を見失ってしまうような厳しい現実がまっているかもしれない。全身を輝かせてくれるような光を澄んだ目で見つけることは、歳を取る程、難しくなるようにも思う。

 

今回の聖句は、見失った時に、「あなたの中にある光が消えていないか」調べろと語る。それは、誰にでも出来る事だなあと思う。自分の中に暗い所がないか、正直に向き合う。そして、もし見つかったなら、その暗い部分を認める。誰にでも出来るが、実際にはしんどい作業だ。でも、そうすることで、目は再び澄み始め、光を見つけ、体の中にまた火をともしてくれるようになるということなのだろう。

そして、教会は澄んだ目で見つめられた時に、光を見出してもらえる場所であるべきなのだとも思う。燭台の上に置かれた時に恥ずかしくない教会であることが要求されているように思う。それは信仰者でいることにおいても同じだろう。厳しいことだ。

もちろん、学園祭での経験は、偶発的で奇跡的な一瞬の輝きかもしれない。まだ社会の複雑さのない純粋な世界での小さな成功体験かもれない。それでも、その輝きを放てる自分との出会いは、生涯の財産だと思う。その経験が、後に自分の暗い部分を認める勇気を与えてくれるからだ。

 

今の自分を変える鍵をいつも私たちは自分の中に持っているのだと思う。随分昔に書いた「KEY」という曲の歌詞を紹介する。

 

「KEY」

そう 遠い昔何も見えぬ頃同じ場所にいたね
そう 一人ずつ夢を語っては巣立つように消えた

時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

そう 時間の上で誰もが手探りで違う場所に生きる
ああ 誰かが寂しさに躓いて足を止めたようだ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

長い苦しみの末に 鍵をかけてちゃ駄目さ
光も手にせずに 鍵をかけてちゃ駄目さ

 

遠い夢に追いつけず 苦しさに鍵をかける
閉じこめたその同じ鍵は開けるためのものだよ
時が来て飛び降りた 降りたって鍵を開けた
恐れなど何一つ無くて長い旅を始めた そうだろう

 

手で触れて分かる事 ルカによる福音書 24章38節~39節(Baggage)(聖書の話36)

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」

(ルカによる福音書 24章38節~39節)

 

今日の聖句は、なかなか難しいところだ。十字架にはりつけにされて死んだはずのイエス様が復活して弟子たちの前に現れたときの記述だからだ。今の科学では「そんなことはあり得ない」という聖書箇所だ。
「科学的か」とか「現実的か」とかそういう問題としてイエス様の復活を考えると、どうしても話は難しいところにいってしまうのだが、この聖書箇所を読んでいて、あるとき僕はある感情をいだいた。

 

この箇所での弟子たちの状況は、相当絶望的なものだっただろうと思われる。人生をかけて、イエス様に従う事をきめて、一緒に歩んで来たのに、そのイエス様が時の権力者によって、死刑を宣告されて死んでしまったという現実。自分たちにも身の危険が迫っている弟子たちは、それでも、ばらばらに逃げる事もせずに、部屋に鍵をかけて、また集まっていた。
この先の人生をどうすればいいのか、なぜ、イエス様は死んでしまったのか。答えのない自問自答の中にいたのではないだろうか。
そこへ、イエス様が肉体をもって現れる。しかも、「触ってみろ」という訳だ。

 

僕が抱いた感情は「よかったなあ、嬉しかったやろうなあ」だ。それは不思議な感情だった。復活を信じられたとか、分かったとかではなく、ただ素直に弟子たちの気持ちを感じた経験だった。

 

例えば、誰かと会い、話をしたとしよう。その人が実在したかどうかを疑う人はいないだろう。それは、信じるか信じないかではなく、そこにその人がいたことは出会った本人にとっては確かなことだからだ。それと同じくらいの確かさで、はっきりと、弟子たちはイエス様がそこにいる事を感じたのだと思うのだ。ただただ嬉しかったのではないかと思う。

 

そして、その物語は、2000年ものあいだ、くり返し、弟子たちと同じようにイエス様が復活したことを確信する人たちによって、語られ、聖書に記され、消えてしまうことなく、私たちのもとまで運ばれてきたのだと思う。
科学的な説明など必要のない確かさで復活したイエス様に出会い、喜びを感じる。イエス様の教えに従い、人生を歩む中で、イエス様の人生に出会っていくということが起こる。聖書を読み、教会に通い、自分の生き方を探し求める時、イエス様が十字架にはりつけにされ死んでしまうということに、弟子と同じように絶望するという事が起こる。そして、復活したイエス様に出会うということが起こって来たのだと思う。

 

「Baggage」という曲の歌詞を今回は紹介しようと思う。復活は論理的証明、科学的証明が可能な出来事ではないかもしれない。けれど、主体的告白としてなら、確かなことなのではないだろうか。イエス様の復活は、語り継ぎたくなる喜ばしい出来事なのだと思う。

 

「Baggage」

 

手で触れて分かること 抱きしめて感じあえることを 運んで行くんだ僕ら
不確かで危うくて 切なくてあたたかい心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

愛しさに守られること 見つめれば伝えあえることを 運んで行くんだ僕ら
慰めて励まして ぎりぎりで浮かんでる心を 運んで行くんだ僕ら

 

小さな箱に閉じ込めたものを紐解いて見せるように

 

僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを
僕だけのストーリーを君に聞かせよう
君とだけのストーリーを

 

雨の夜も光る道 コヘレトの言葉 12章1節~2節(雨の夜も光る道)(聖書の話37)

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
太陽が闇に変わらないうちに。
月や星の光がうせないうちに。
雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(コヘレトの言葉 12章1節~2節)

 

空しさと向き合った王様コヘレト。そのコヘレトの言葉を綴った「コヘレトの言葉」。旧約聖書の中で、非常に興味深い箇所だ。解説を読むと「死に運命づけられた人間の生の意義について考えた、ある知恵者の書」とある。その最後の章に、青春の日々を過ごす若者へ向けて、コヘレトが言葉を紡いでる。
彼のメッセージは一点だ。「お前の創造主に心を留めよ」。若いときに自分を創った者を知る事が大切だとコヘレトは言う。

 

本来、青春時代は何にだって一生懸命だ。恋も友情も将来の夢への取り組みも。死の予感はまだ遠く、希望に溢れている。現実は甘くないという大人たちの言葉を、敗者の遠吠えのように感じたものだ。その感覚は健全なものだと僕は思う。そして、その時期にこそ、一生懸命生きる事の楽しさを感じるべきだと思う。夢中になれることの幸せを実感するべきだと思う。
青春と相対的なものはやがて過ぎて行く。そこには諦めがあり、絶望がある。虚しさが襲って来て、なぜあんなに楽しかったのか不思議に思ったりする。そして、絶対的なものが存在するかどうかという問題が、初めて自分の人生にとって大きな問題になるのだと思う。

 

僕が信仰を受け入れたのは、24歳の時だった。キリスト教を信じたからといって、生の意義に対する答えが明確に与えられる訳ではなかったが、その問いを誰に向けて行うのかを定められた言う意味においては、人生の大きなターニングポイントになったと思う。私たちが誰に、あるいは何に創られたかという問い。あるいは何のために創られたのかという問い。この種の問題に対する答えは実存の中で獲得して行くものだ。不確かながら、一生懸命生きることの先で、少しずつ確信されていくものだと僕は思う。
そうなのだ。青春が過ぎても、結局は一生懸命生きていかなければならない。そのためには、過ぎて行かない、相対的でない、絶対的な何かが必要なのだ。諦めや虚しさを越える希望が必要なのだ。コヘレトは「お前の創造主」こそがそれだと語る。

 

今回は「雨の夜も光る道」という曲の歌詞を紹介しようと思う。

「雨の夜も光る道」

その人がくれた愛は 確かに君を育てた
月明かりが闇夜に道を照らす

君は旅支度を調えて 振り返らずに旅立つだろう
星の示す行く先へと急いで

迷わずにその道を行く 不安や焦りよりも速く
その人が見守ることは 必要な時が来れば思い出せばいい

陽の光と希望に溢れて 喜びと楽しみをみつける
太陽は情熱に火を注ぐ

やがて雨の夜が訪れて 情熱の火は消えたとしても
その人がくれた愛を 分かち合う喜びを知るなら
雨の夜も光る道を見るだろう

迷わずにその道を行く 不安や焦りよりも速く
その人が見守ることは 必要な時が来れば思い出せばいい

 

光と闇 詩編 139編11節~12節(聖書の話38)

わたしは言う。
「闇の中でも主はわたしを見ておられる。
夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
夜も昼も共に光を放ち
闇も、光も、変わるところがない。

(詩編139編11節~12節)

 

今回の聖句の冒頭「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す』」は、以前よく使われていた口語訳聖書では「『やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ』とわたしが言っても」と訳されている。
どこにいても全てを知って全てを見ている神様(あなた)から闇を使って筆者(わたし)が逃れたいと感じているニュアンスが読みとれる。

僕は、「神様は見てらっしゃる」という洗脳教育とも言える家庭教育を受けたので、つねに神様の視線から逃れられない気分を幼少期から味わってきた。それは、時には安心を生み、時には反抗を生む。筆者のように、「闇をまとって、神様の視線から逃れたい」という気持ち、そういう試みが湧き上がってくる。今回の聖句は、その気分の中で、白旗を揚げているらしい。所詮は、神様から逃れられないのだという白旗。闇を闇としない圧倒的な光が神様にはあるというのだ。

 

しかし、光とは何を指し、闇とは何を指すのだろう。光と闇からイメージするものを周囲の友達に尋ねると興味深い答えが返って来た。

「自分の内面の表と裏をイメージする」という意見。「光と闇」を自分の中で完結させて感じている。たとえば天使の囁きと悪魔の誘惑というような外からの働きは一切感じていないのだ。自分の中の状態として光と闇があるという感覚。いや、光というより、闇でない部分、自分の中にある、闇と闇でない部分。

もし、外からの働きかけがないとすると、光より闇が強いと感じるのはよく分かる。そうなると、自分の闇は見つめないで生きて行く方が賢いということになるのかもしれない。そして、闇を見つめないことで光にも気がつけないということが起こっているのではないか。うっすらと絶望している、という状態。現代の社会はまさにそういう状態なのかもしれない。

もう一人、興味深い見解を述べた友達がいた。「闇が最初に与えられている状態だな」と彼は言う。光という外からの働きかけがなければ、基本的には闇が支配していると考える方が自然だという。光によって闇は消されるけれど、光がなくなってしまうと闇にかえってしまうという訳だ。

はっとした。

今回の聖句は、まったく逆の発想で語られているのだ。光があるという状態をどうやっても変えられない。闇をまとって光から逃れようとしても、光からは逃れられないと筆者は語っているのだ。そして、その光は、自分の内側からではなく、外からの働きかけとしてあるのだと。そこには決定的な違いがある。その違いとは何か。
「神様がいるかいないか」だ。

圧倒的な光の存在を感じているときに、初めて、光から逃れられないという発想は出てくる。太陽を知っているから暗闇で居続けることは出来ないと感じるように、神様からの光を感じているということなのだろう。神様に対する信仰と信頼において、ある意味では諦めながらそのことを受け入れ、おおいに喜ぶべきだという態度が今回の聖句にはある。

神様はいる。絶対的に存在している。そのことからは逃れられない。僕もそう思う。そう思ってしまった人にとっては、それはよく分かる話なのだとも思う。と同時に分からない人にとって、さっぱりリアリティーがないのかもしれない。いったいどんな光があるというのだ、この世は暗闇だらけではないか。絶望が希望を上回っているではないか、悪が善を押さえ付けているではないか。そういう声が聞こえてくる。

この世の中を見る、自分の心の中を見る、人の行いを見る。神様が存在しないという前提で世界を見渡せば、絶望と暗闇の支配ばかりが目につく。

 

視点の変換が必要なのだ。
たとえば、人と対峙する時に、その人の悪意に気をとられていると、どんどん人間関係は悪くなっていく。自分のことを信じてくれていないのではないか、と怖くなって、なにか歯車がくるってしまう。うまくいっていない一人の人との間にも、本当は愛し合いたい気持ちがあって、求めているのに、表面的には敵対してしまったり意地悪になったり、無愛想になったりしているということがある。分かり合いたい、繋がりたいという自分の気持ちに素直になったり、分かり合いたいと思ってくれていると、相手の事を信じたりすることで、関係がかわったりすることを経験する。
視点を変える事で、見えていなかったものが見えてくる。闇を見ていたのに、光をみつけることが出来るようになる。それは、ずっとそこにあって光を放っていたはずなのに見えていなかった光だ。

 

詩編が書かれた旧約聖書の時代には、神様を感じる事は今よりずっと大変だったかもしれない。しかし、私たちの時代は、イエス様が誕生した後の時代だ。2000年前にこの世に降り立ったイエス様は、見えにくかった光をはっきりとこの世に知らせるためにその生涯を駆け抜けた人だった。全ての絶望、全ての悪意、全ての暗闇に打ち勝つ希望と善意と光を示した人だった。

つまるところ、暗闇とは、お金や権力に惹かれてしまう人間の欲望であり、そこから自由になれない人間の罪へと帰結していくように思う。
その罪に身を任せてしまうことが、人間の本質だとするなら、私たちが見ているのは、神のいない暗闇が支配する世界だ。
しかし、イエス様は、お金や権力が、人間の欲望が、まったく魅力をうしなってしまう力が愛にはあって、その愛は確実に全ての人に注がれているのだと伝える。そして、それでも欲望に身を任せて、罪を重ねてしまう私たちの罪の裁きまで背負って、自分が身代わりとなり十字架について、「もう大丈夫だ、たとえ失敗して罪を犯しても、その償いさえ済んでいる」というメッセージを残した。

わたしたちは、その希望に招かれている。その希望は確かにここにあって、その光は私たちを照らしている。あるものはあるのだと思ったりする。

視点を変えることで、その光に気がつける人でいたいと思った。

 

思い煩いと神様 ペテロの手紙1 5章7節(聖書の話39)

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

(ペテロの手紙Ⅰ  5章7節)

今回はペテロの手紙Ⅰという新約聖書の後ろの方にある聖書箇所から聖句を選んだ。イエスの使徒ペテロによって書かれたとされる手紙だが、本当は誰が書いたのかはっきりは分からないようだ。ただ、小アジア(現在のトルコ西部から中部)の人々に向けて「信仰をしっかり持っているように」ということで書かれたものであることは分かっている。まだキリスト教徒が世の中から迫害を受けていた頃、その迫害に打ち勝って、神様を信じるようにと筆者は読者を励ましている。

もう一度、今日の聖句を読んでみよう。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

思い煩い。みなさんは、今日、なにか心配事や悩みを抱えていらっしゃるだろうか。今日の聖句はそれらを全て神様にお任せしなさいと語る。

「お任せしなさい」という言葉は「委ねよ」と訳されていた時代もあり、原語には「投げかけよ」という比較的強い意味もあるようだ。自分の心配事を神様に投げかける。全部任せて委ねてしまう。それがおすすめだと聖句は語る。なぜなら神様はあなたのことを考えてくれているからだというのだ。

今回の聖句について調べたりしながら、勉強していて、思い煩いの構造について興味深い解説に出会った。「古代ギリシャ語で『思い煩い』には、『心を分割する』という意味がある。『これは心配しなくてもいい』と考えるすぐ後から、『本当に心配しなくてもいいのか?』とささやく声が聞こえてきて、私たちの心が分割される。それが思い煩いだ」という注解だ。

私たちは、まだ現実となっていないのに、空想の中で勝手に未来を不安に思ってしまう。そうやって思い煩いの正体を見破るとそのことに心を揺さぶられ時間を奪われている事をバカバカしくも感じる。未来の事は未来になってみないと分からない。

しかし、同時にあることに気がついた。それは、神様に委ねたからといって、自分の望む結末が今回の聖句で約束されている訳ではないということだ。解決するとも大丈夫だとも聖句は言っていない。ただ、神様はあなたのことを心にかけていてくださると断言しているだけだ。

つまり、自分の望む未来ではなかったとしても、その未来は自分を心にかけてくれた神様が導いた未来だと信じるなら、まだ見ぬ未来について心を分割される必要はないではないかと聖句は語っているのだ。

実はなかなか厳しい聖句だなと思った。「お任せしなさい」には、心からの信頼が要求されている感じがする。しかも、神様から明確な返事や約束は直接にはない。その不確かさこそが、キリスト教の厳しさ、難しさだと僕は思う。どうすれば信じられるのだろう。どうすれば安心出来るのだろう。そんなことを考えていて、ある出来事を思い出しだ。それは、自分の教会の牧師とのたわいない会話だ。

ある時、忙しさの中で不安に押しつぶされそうなことがあった。スケジュールも随分タイトで、それなのに教会の用事を頼まれて、いくつかの予定の合間を縫って教会に向かった。

音楽を作る事、あるいはお芝居をするために台詞を覚えたり、その稽古に追われているという状況。自分の日常が、神様に喜ばれるものであればいいのだけれど、なかなか自信をもって神様に喜ばれているとは言えない。それ以前に、いま取り組んでいる表現が、受け手に喜んでもらえる表現へと高められているかさえ怪しいという状況だ。

そんな不安の中にあった僕は、そのことを特に相談した訳ではなかったのだが、教会の用事を済ませた後、牧師と少し近頃の忙しさと現在抱えている仕事について、雑談をした。別れ際に、牧師が一言「祈ってるからね」と僕に告げた。ただ一言「祈っている」と告げられただけだ。

その言葉を聞いた時、不思議な事に僕はまさに思い煩いからの解放を感じた。本当に祈ってくれていること、ただその確信が、大きな安心を僕に与えた。目の前に存在する牧師は、僕のことを神様に祈ってくれている。

僕は神様の愛は人を介してやってくるのだと常々思っている。もちろん、静かに祈り、一人聖書を読む中にも神様との出会いはあるだろう。しかし、直接関わってくれる人との間に神様の働きを感じる時、より強く、神様を感じ、その愛を確信できるように思うのだ。

私たちは、共に生きる人々、神様とつながる人々に支えられている。それは素敵な事だ。私たちのために、私たちの未来のために祈っていてくれる人たちがいる。その力強さ、その希望を強く感じる。

そして、それは同時に、私たちが、人々のために祈る事ができることを意味する。わたしが、今日、共に時間を過ごすみなさんのために祈れることを意味する。

みなさんが、いま抱えておられる心配事や悩みが神様によって取り除かれ、神様が用意して下さる未来を受け入れる力がそれぞれに与えられますように。