


2002年7月7日発売
定価:¥1,500(税別)
OBUR-0005
1.たこみたい ねこみたい
2.曇り空のベクトル
3.Indian summer souls
4.たこみたい ねこみたい(カラオケ)
自由自在のインディーズスピリットに溢れたミニアルバム。
なごみキャラ有田Vo.の金字塔。
効能→ くよくよした気持ちがハラリと消える。
プロデューサーに奇才・ホッピー神山、ゲストに湊雅史(Ds)、スティーブ・エトウ(Perc)らツワモノミュージシャンを迎えたミニアルバム。東京・吉祥寺GOKサウンドにて録音。
京都のエアー感と東京のスピード感が融合した、自由でPOPで、とてつもなくスリリングな作品。
ライブで既に大好評の、一度聞いたら耳を離れない有田Vo.のM1、NYテロを題材に盛り込んだ原田Vo.の硬派な ポエトリーリーディングM2、幻想的でありながら力強く包み込む笹野Vo.M3と、KCBフロント人のキャラクターを鮮明に打ち出した野心作です。期待に応えてM4はM1のカラオケ収録してます(笑)。
随分前に同志社女子大学での礼拝奨励を毎週させていただいた。同志社高等学校でキリスト教学という教科の嘱託講師をさせてもらっていることもあって、依頼が舞い込んだのだ。ギターを持って行って、音楽による奨励をしたりしながら、普段の授業や新しく考えたことなどを聖書のお話として10分くらいにまとめていく作業は新鮮で楽しかった。
その時の原稿をもとに、週に一回くらいはブログにも簡単な聖書のお話をのせてみようかなと思う。なんとなくね。概ね「日報」のようなブログだが、たまにはティーチャーサイドの僕の顔も紹介してみようと思うのだ。
さて、その第1回は、お祈りの仕方についてお話をしようと思う。
このブログを読んでくださるみなさんが、人生の大変な時に「ああ、キリスト教の神様にお祈りをしたいなあ」と思った時、その方法を知らないというのは、ちょっと残念だと思うからだ。
初詣などに行くと、いろいろとお祈りの方法が書かれている。手水屋でお清めをした後に、二礼二拍手一礼。その作法には実は一つ一つ意味があるように、キリスト教の御祈りにも作法があるのだろうか。
今回選んだ聖句はイエス様がどのように祈るのがいいかを教えている個所。別の福音書では、弟子がイエス様に「御祈りの方法を教えてください」と尋ねたときのイエス様の答えとして記されている。
「だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』」
(マタイによる福音書 6章9節~13節)
この箇所は、キリスト教の人々に大切にされ、「主の祈り」と呼ばれて、形を整えられ、世界中で暗唱されるようになった。みなさんもどこかで聞いたり、あるいは暗唱させられたりした経験があるかもしれない。
天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
まずは、この主の祈りを少し詳しく見てみることにする。
「天にまします我らの父よ」
イエス様は祈りの最初にそう声に出しなさいと教えた。それが意味するところは何か。それは、「名前を呼ぶ」ということだ。「神よ」でも「主なる神よ」でも、「神様」でもかまわない。最初に名前を呼ぶと、それがどんな場所であっても神はそこにいて、耳を傾けて下さるということなのだ。
「み名をあがめさせたまえ み国を来たらせたまえ み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」
呼んだ後に、神の栄のための祈りが続く。「み」という言葉は「神の」という意味なので、神の名前を崇めることができますように、神の国つまり天国がやってきますように、神の意志が天国で実現しているように地上でも実現しますように、と祈る訳だ。そして、やっと、「我らの」ということになる。
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ 我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」
「日用の糧」とは「今日の食糧」という意味だ。必要な生活物資。現代においてはお金や仕事をイメージすればいいと思うのだが、一日分だけをお願いしろとイエス様は言う。そうである。この祈りは毎朝の祈りだ。毎日、一日分が満たされれば大丈夫なのだ。
生活物資が満たされた後は精神生活の平安だ。私たちの心が不安になるのは、誰かを許せない時、そして、誰かに許してもらわないといけない時だ。現代では、食事よりもこの問題の方が重要かもしれないな。
生活物資の充足と精神生活の平安。その両方に関する不安を取り除いてもらうように祈れとイエス様は言う。
「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」
最後に未来への不安を取り除くためにご加護を求める。これで現在も過去も未来も大丈夫。
聖句はここまででだが、プロテスタントではその後にまとめの言葉がついて、最後に「アーメン」という言葉がつく。この「アーメン」はもちろん聞いたことはあるだろう。高校のキリスト教学の授業で学生たちに「アーメン」を自分のイメージで日本語にしてみろというと、「よろしくお願いします」「以上」「ありがとう」などが挙がる。うん、惜しいけどちょっと違う。
アーメンはヘブライ語で「本当に」とか「確かに」という意味。つまり、いままでの祈りは私の本心ですという確認の言葉、人の祈りに「アーメン」というときは「私もその祈りに同意します」という意味になる訳だ。
この話を大学でする前日に、クリスチャンでない高校の職員にこのお話の相談をしていたら、ここまでを聞いて、「主の祈りって、地味で難しいですね」と言われた。そうなのである。この祈りは、世界でも、もっとも謙遜で、もっとも優等生な祈りといえる。でも、みなさんが本当に祈りたいと思う時は、「助けて」とか「苦しい」とか、そんな気持ちが支配していて、こんなに悠長に神の栄など祈ってはいられない時だろうなと思う。
今回、この祈りを勉強していて、一番大切なのは最初と最後だと気がついた。つまり呼ぶこととアーメンということの二つだ。メールで言うと送信先指定と送信ボタンといったところだろう。アーメンを言う前に、教会では「主の御名によって、アーメン」とか「主イエス・キリストのお名前によって、アーメン」など、イエス様に取り持って貰って神様に祈りを届けるという意味の言葉が使われる。最初と最後があれば、内容は自由でいい。初めての祈りは、助けを求める内容でも、愚痴でも、恨みつらみでも、なんでもいいと思う。ただ泣いてしまって言葉にならなくてもいい。神様と呼んで、最後にアーメンと言えば、それはキリスト教の祈りになるのだ。
いつか、自分でキリスト教の神様に祈りたいと思った時にそのことを思い出してもらえたらいいなあと思う。
先週に引き続き、聖書の話を少し。「恵みと真理」というタイトルだ。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
(ヨハネによる福音書 1章17節)
今回は、少し、聖書という書物について分析し、そこからこの聖句の意味を考えてみようと思う。
この聖書という書物は、なかなかおもしろい書物で、大きくは二つに別れている。旧約聖書と新約聖書だ。
時間的には旧約聖書のほうがずっと古い書物である。ヘブル語で書かれた旧約聖書は、ユダヤ人と神との歴史を通して、神の教えを書き記した書物だ。オールドテスタメント。古い契約。それは、神とユダヤの民との契約であり、その歴史だ。
一方、新約聖書はギリシャ語で書かれた書物である。聖書を大きく旧約と新約という二つに分ける人物がいる。イエスという一人の青年だ。イエス様は新約にしか登場しない。今から2000年くらい前に、30歳ぐらいで十字架にはりつけにされて死んで行った青年。彼の人生と教え、その弟子たちの生涯や弟子たちによって書かれた手紙によって新約聖書は構成されている。ニューテスタメント。新しい契約。新約では、イエス様を通して全ての人と神との間に契約が結ばれる。
書きあがり、編集されるまでに1000年以上を要したこの聖書は、創世記で始まり、ヨハネの黙示録で終わっている。世の始まりから、世の終わりまでが書かれていて、その中心にイエス様の誕生があるという構成になっている。
そのイエス様の「誕生から十字架での死、生涯と教え」を書き記しているのが新約聖書の最初にある4つの福音書だ。福音書とは英語でゴスペル。グッドニュース。いい知らせのことだ。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。それぞれのグループが「イエス様の教え、あるいは存在そのものが、世の中にとっていい知らせだ!」と思って書き記した書物が「~による福音書」だ。だから、事柄によっては同じ出来事で4回書かれているものもある訳だ。
今回の聖句は、福音書の中では一番後に書かれたヨハネによる福音書の1章。つまり、書き出しの部分にある。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
みなさんは「モーセ」と聞いて、何を思い浮かべるだろう。僕は高校でキリスト教学の授業をしているが、学生に質問すると、だいたい二つの回答が返ってくる。「海を割った人」と「十戒」の二つだ。
今から3000年以上も前の人物であるモーセは、旧約聖書に登場する預言者であり、エジプトからユダヤ人が脱出したときのリーダーだ。民を導き、海を割ってエジプトを脱出するシーンが映画などになっていて、学生たちへのモーセに対する一問一答で「海を割った人」というイメージが出てくるという訳だ。
そして、もう一つのモーセのイメージ「十戒」。これも映画になっている。民のリーダーとして彼らを導くモーセが、神から授かるのが十戒である。
十戒は十の戒めからなっている「~をしてはならない」という教えだ。この教えがもとになり、さまざまな細かいルールがユダヤ教の中に作られていく。そして「律法」を守ることが神との契約を実現するための方法だと考えられ、律法を一生懸命守る人たちが神に喜ばれる存在だと考えられていく。
そんな旧約の世界にイエス様は登場する。
イエス様は、律法でがんじがらめになり、窮屈になってしまった世の中で、どこか不健全になってしまった神と人との関係に疑問を投げかける。本当に大切なのはそのような事ではない、という訳だ。
イエス様は、律法というルールではなく、自分が出来る全てで人を愛すること、隣人になることこそが大切なのだと主張し、実行する人生を送る。それは、時の権力者の否定となり、疎まれて殺されてしまう訳だが、彼を殺しても、伝わってしまった「本当のこと」を権力者たちは止めることは出来なかったのだろう。イエス様の教えはキリスト教となり、世界に広まることになるのだ。
もう一度聖句を読んでみよう。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
律法はイメージできるが、恵みと真理とは一体、何の事なのだろう。
まず、恵みとは何か。イエス様は、生涯を通して隣人を愛する事を実践した人物だ。わたしたちは本当に愛された時に自分が存在していることを肯定されているという実感を覚える。イエス様が愛した隣人たちの多くは、自分の存在を肯定できない問題を抱えている人たちだった。愛されているという恵みがイエス様から人々へ示されたということだと思う。また、イエス様のように愛そうとすると、「愛せない」という現実、自分の弱さや罪に出会ったりする。愛されているという恵みとは別に、愛そうとしても愛せないという自分の罪を、イエス様が十字架にかけられ、身代わりとなって下さったことで、すでに赦されているというもう一つの恵みが新約の世界には存在すると言える。
次に、真理とは何か。ある時、礼拝でジュネーブ教会信仰問答という書物の紹介があった。カルヴァンが書いたその問答の最初の質問は「人生の主な目的はなんですか」だそうだ。みなさんはこの質問にどう答えるだろう。カルヴァンの用意した答えは「神を知る事であります」だった。人生の主な目的は神を知ること。イエス様によって現れた真理とは、そういう類いの事柄ではないかと思う。律法を守ることによってではなく、イエス様に出会う事で、私たちは神のことを本当の意味で知る事が出来るのだとこの聖句は伝えているのではないだろうか。
律法はわたしたちに「生き方」は提示してくれるかもしれない。しかし、わたしたちの存在を根底から肯定してくれるのは、「生き方」やその結果における成果ではないように思う。「わたしたちがただ『生きている』ことにすでに意味がある」ということ「生きていてもいい」ということ、その発見こそが恵みであり、その恵みが偽りではないという確信こそ真理の発見なのではないだろうか。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
今回は、イエス様の言葉を通して、私たちの「心のあるところ」、私たちの心はどこにあるのか、について考えてみたいと思う。
僕は、同志社高校でキリスト教学という授業を担当しているが、その授業で「『生きて行くために本当に大切なもの』とは何ですか?」という質問を高校生にすることがある。20人くらいの学生にどんどん発言させて行くのだが、まあ、キリスト教の授業なので、最初は「友達」とか「家族」とか、「生きようとする意思」だとか、当たり障りのない答えを、気を使って答えてくれる。そして、ちょっと勇気のある頭のいい子が「愛」と答える。本当にそうか?これで生きて行けるか?と問うと、「住むところ」「食べ物」「着るもの」と続き、業を煮やした学生がやっと「お金」と答えるというパターンが多い。「愛」と「お金」が出てしまってからは、教室は随分リラックスした雰囲気になる。誰かが「空気」なんて言うと、「水」「酸素」とちょっとふざけた感じで泥試合のようになって行く。
「生きて行く為に本当に大切なもの」の答えを黒板に書き記して行くと、大きくは4つくらいに別れている事に気がつく。一つは愛に代表される人との関係にまつわるもの。もう一つはお金に代表されるもの、言い換えればお金で買えるもの。三つ目は生物として生きて行く環境を支えているもの。そして、生きて行く哲学のような自分のアイデンティティーを支えているもの。とは言え、やはり、この質問では「お金」か「愛」かの選択が迫られているという感じがする。授業で、この二つの言葉を学生から引き出すのに少し時間がかかることが多いのは、学生側も授業が求めている答えを直感的に分かっていて、そのことを正直に答えるのは少し恥ずかしいことだと感じているからかもしれない。
「やっぱりお金やろう」と僕が言うと、ちょっと意外そうな顔をしながら、同時に安心した表情を学生は見せる。キリスト教の授業だから「愛」って言わなければならないとどこかで思っているのかもしれない。
さて、今回の聖句をもう一度読んでみよう。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
生きて行く為に本当に大切なもの、その全てを「富」という言葉に置き換えて考えてみる。私たちにとって「富」とは何か。やっぱりお金のような気がする。「お前の富を見せてくれ」と言われて、溜め込んだ通帳記入の残高を見せる事に、僕は恥ずかしさを覚えない。その残高の低さに恥ずかしさを覚えるくらいだ。
ところが、質問が「あなたの心はどこにあるのか」というものになると、気持ちは一転する。通帳をひろげて「ここに僕の心があります」は恥ずかしくて寂しい気持ちになるのだ。
「富はお金ですが、心は愛を大切にしています」と答えたい。しかし、聖書はそれをゆるさない。
「あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」なかなか厳しい言葉だ。
自分が自分自身であるために本当に大切なものはなにか。そのことを自分の周囲や外側に求めることは、実は本当に恐ろしい事だ。それは、携帯を忘れて来たときに自分の一部が失われたような恐怖を覚えるのに似ている。私たちは、自分の外側に自分を持ってしまう。所有することで存在を確認しようとしてしまう。
お金は奪われてしまう。お金だけでなく、愛についても、誰かに「愛される事」によって自分を確認しよとすると、愛してもらえなければ、愛してもらえなくなれば、やはり、自分を失うことになってしまう。
「天に富を積む」という言葉はなかなか難しい言葉だが、「自分の存在が誰にも奪われない形で意味あるものになる、存在そのものに意味があるように生きて行くこと」と言いかえると、少しイメージする事が出来るかもしれない。
そういう生き方にとって一番大切なものが「愛」、もう少し踏み込んで言うなら「愛する」ということなのだと思う。「愛せている存在」という喜びと価値。英語で言うならto haveという所有することで自分の存在価値を確認するのではなく、to beという存在そのものに自分の存在価値を見いだすこと。「持っている」から価値があるのではなく、存在そのもに価値があるという自分を育てて行く事を、この聖句はうながしているように思う。そして、そういう自分は神様との関係の中で育っていくのだとイエス様は言っているのだと思う。
あなたは、何を自分の富だと感じているだろう。その富のあるところにあなたの心があるのだ。
自分の「心のあるところ」について、足を止め、ゆっくりと考えてみる時を持つことも必要だなと改めて思う。
今回は、「愛するということ」という大胆なタイトルをつけている。そんなに大層なことを語れる訳ではないのだが、僕が高校のキリスト教学の授業の中で話している内容をもとに、キリスト教が語る「愛」についてなんとなく考えていることを書き記してみようと思う。
「『愛する』ということが今ひとつどういうことか分からない」ということについて、学生に説明する為に、なぜ分かりにくいのかを考えたり調べたりした事があった。そして、その理由の一つに、「愛する」「愛される」「愛」という、この三つの違いについて、私たちが通常あまり区別せずに話をしているということがあるのではないかという指摘に出会った。
そこで、この三つの関係はどうなっているのかを考えてみることにした。まるで小学生のようだが、僕のイメージを少し説明してみようと思う。
まず、「愛される」について。「愛されたい」という気持ちが僕の中に確かにあり、それはまるでタンクのようだと僕は思った。そこで、それを「愛されたいタンク」と名付けてみた。次に「愛する」について。「愛したい」という気持ちもやはり自分の中にあり、それはまるで蛇口のようだと思った。そこで、それを「愛したい蛇口」と名付けた。そして、「愛されたいタンク」の下に「愛したい蛇口」がついているという設定にしてみたのだ。これは、僕だけではなく、すべての人に使える設定ではないかと思った。みなさんそれぞれの心の中に、蛇口のついたタンクがあるという感じだ。最後は「愛」について。誰かが愛してくれると、その人のタンクの中に水が入ってくる。この水が、「愛」ということになる訳だ。愛される時には、タンクで愛を受け取り、愛するときには蛇口をひねり、タンクに溜まっている愛を相手のタンクに注ぐというイメージだ。
この小学生のようなイメージを僕は大変気に入った。もし、そうだとすると、いろいろなことの説明が、簡単になるのだ。
例えば、愛されたのと愛したのではどちらが先か、というような質問にも、簡単に答えられる。当然、愛されたのが先だ。だって、生まれて来た時にはタンクは空っぽなのだから。誰が愛してくれたか。もちろん育ててくれた人、多くの場合、親という事になるだろう。子供をかわいがる親の説明をする必要はないだろう。僕の友達も、たのんでもいないのに、自分の子供の写真を見せてくれる。「我が子かわいい記録更新だ!」とばかりに、毎朝見せてくれる友人もいた。子供は、親にもらった愛情をタンクに蓄えて、初めて他者と関わる。例えば、公園デビュー。同年代の子どもと出会い、砂場で遊び、転んでしまった新しい友達に「痛いの痛いの飛んで行け!」と、初めて、自分から蛇口をあける訳だ。そこからは毎日の生活で愛情の交換が始まる。そして、大人になった私たちはもう、バランスを見ながら、出会う人の中から大切な人を選び、愛情の交換を日々行っているのだと思うのだ。
イメージはどんどん広がる。「ありがとうを言うのがへたくそなあの友達は、きっとタンクの水がエンプティー寸前で、愛を返してくれないかもしれない僕みたいなやつに簡単に愛情はそそがないつもりなんだな」とか、「大好きな彼との恋愛が終わってしまって、もう恋なんてしないと言い張るあの子は、恋愛をすると、彼から貰ったタンクの中の愛を使ってしまうからいやなんだな」とか。本題を超えて、水質の問題や水量、水の出し方の美しさなど、いろいろなことまで考えたくなってくる。でも、このあたりでやめておこう。
キリスト教は愛すること、つまり、蛇口を開けることを要求する宗教だと思う。「互いに愛し合え」と今日の聖句は私たちに伝えている。そうすれば、「神はわたしたちの内にとどまる」と続いている。タンクの状態がどんなに悪くても、愛する事をやめるなと言うのだ。なかなか厳しい要求である。
しかし、それこそが、キリスト教が世界に広がった理由、2000年生き残ってきた理由だと僕は思う。
もう自分のタンクには愛がないという状態でも、聖句に従って蛇口をひねるときに、奇跡は起こる。なかったはずの愛が蛇口からどんどん流れ出るという奇跡だ。蛇口を閉めて、タンクを確認しても、やっぱり空っぽだ。またおそるおそる蛇口をひねると水が出てくる。それはどういうことか。自分のではなく、神の愛が、自分のタンクと蛇口を通って出て来ているのだ。それは神に愛されていることを意味する。しかし、神の愛は蛇口でしか確認できないというわけだ。なんと実践的な宗教。決して、ご利益のように先行投資をしてはくれない、自分の身を切って、はじめて愛されていることが実感できるというキリスト教の厳しさに、深く納得をし、感銘を受けたのを思い出す。
もう一度聖句を読んでみよう。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」
互いに愛し合う決意をすれば、実行に移せば、いくらでも愛を与えると神は約束をしてくれている。わたしたちのタンクの内側に愛があふれる状態を約束してくれているのだ。その約束は真実の約束だと僕は思う。もう自分では愛せないと思っていても、勇気を持って蛇口を開けるとき、想像もしなかった和解の道が開けるというような経験をする。それは神様が働いたと感じる経験だ。
実践による確信の中で、私たちは神を感じるのだと聖句は伝えている。愛する事を怖がらずに実践できる人になりたい、そして、みなさんにもそうあってほしいなあと思う。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
今日の聖句は、非常に有名な箇所だ。「愛の讃歌」と言われるこの箇所は、キリスト者の愛の詩的表現として、不朽の名言だと言われている。そして、よく、キリスト教式の結婚式で引用される箇所でもある。そんな訳で、もしかすると、人生の中でみなさんが一番耳にする機会が多い聖句と言えるかもしれない。
これは私の先輩の先生がおっしゃっていたのだが、この聖句の「愛」の代わりに「自分」という言葉を入れて読んでみると、いかに自分が愛せていないかがよく分かるそうだ。
「自分は忍耐強い。自分は情け深い。ねたまない。自分は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
いやいや、もう一言目で恥ずかしくて前に進めない感じだ。しかし、そうすると、私たちは、人を愛したことがないということになってしまうのだろうか。そんなことはない。やっぱり、愛した記憶もあれば、愛されたようにも思う。すると、ここに記されている愛は、普段、私たちが口にする愛とは少し違うものなのかもしれないという気がしてくる。
そんなことを思いながら「キリスト教の『愛』」について今回は調べてみた。
新約聖書はギリシャ語で書かれたが、今、わたしたちが日本語で読んでいる聖書で「愛」と訳されている言葉、キリスト教の愛は、当時のギリシャ世界にとって、全く新しい概念だったようだ。ギリシャ語にはいくつか、日本語で愛と訳される言葉がある。代表的なことばはエロース。プラトンが哲学することで深めていった概念とも言われるエロス、エロースは、私たちのよく知っている、恋愛に代表されるような、己の為に美を求める、熱狂的な愛情のことだ。そして、もう一つその対局というか、比較において分かりやすいフィリア。これは友情などに見られる、穏やかな感情。
ギリシャ世界に対して、キリストが、あるいはキリスト教が提示した愛はその二つとは全く違う概念だったと言える。
アガペーという言葉であらわされる愛。それが、今日の聖句が説明しょうとしている愛だ。それは、キリスト、イエスが生涯をかけて示した、神の愛のことだ。
神が、イエスを通して私たちに示した愛はまさにこのような愛だったのだとこの手紙を書いたパウロは証言している。アガペーを哲学書などで調べると「神から人間に下ってくる下降的愛」とある。エロースが求めて求めて奪って行く上昇的愛なのに対して、アガペーは与えていく愛ということになる。
エロース、フィリア、アガペー、そのどれもが日本語では愛と訳される。同じ言葉で訳されるのは、それらが非常に近い感情だからだろう。私たちが誰かを愛している愛を分析しても、そんなにキチンとどのギリシャ語の愛に相当するかを判断する事などできないだろう。むしろ渾然一体となった感情として愛しているのではないだろうか。奪いながら与えていたり、大切に思っているからこそ熱狂的になったり、かと思えば忍耐強く信じて待っていたり。上手く愛せていないと感じていても、不器用だとしても、愛するという言葉がぴったりと来る人との関わり方を私たちはイメージする事が出来る。そこにはエロースもフィリアもアガペーも含まれているような気がするのだ。
神から人間に下ってくる愛、あるいはキリストが私たちに示した愛。それは私たちと関係のないところにあるのではなく、私たちの関係の中に見え隠れしていると言える。神の愛は人を介して現れると私は思う。
冒頭で私は、こんな愛情は私の中にはないと語った。けれど、ないのではなく、不完全で分かりにくくなっているだけなのかもしれないとも思うのだ。そして、すぐ近くにこの愛情を感じることもある。例えば、子供に対する母親の愛情は、まさにこの聖句そのものだったりすると思うのだ。忍耐強く、情け深く、自分の利益を求めず、いらだたず、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えて、子供に接している母親を度々目にする。
私たちも瞬間的になら、無償の愛、与え続ける愛としてわき出してくる感情に身を任せられる事があるのではないか。けれど、それはいつの間にか、過度の期待を寄せてしまったり、依存してしまったり、見返りを期待してしまったりする愛情へと変わってしまうのだろう。そういう不完全な私たちに、この聖句は私たちの愛が目指すべき方向を示しているとも言える。誰かを大切に思う私たちの気持ちが、今日の聖句のようであるならば素晴らしいなあと思う。最後にもう一度この聖句を味わってみて欲しいと思う。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」