自分を愛するように(聖書の話32)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

(ルカによる福音書 10章25節~28節)

イエス様と律法の専門家の会話だ。二人の問答は「永遠の命を受け継ぐためにはどうしたらよいか」がテーマだ。
「永遠の命」とは何かという問いは非常に難しいのだが、一番いい形の命、目指すべき命のあり方くらいに考えてもらえばいいかもしれない。そして、その答えは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」だと聖句は告げている。この言葉は旧約聖書からの引用。神様からの教えが書かれた当時の聖書の中から、申命記6章5節とレビ記19章18節を抜き出し、律法の専門家が的確に即答しているのだ。イエス様は「正しい答えだ」と言う。当時の律法の中心にあった十戒を受け身的に守るのではなく、「愛する」という行為で積極的に生活する中で、自然に十戒を守るという視点の転換、律法主義からの脱却が感じられる問答だ。

さて、この答えには三つの愛する対象が出てくる。神、隣人、そして、自分だ。
神様に愛されていることを信じて、神様に感謝し、神様を愛する。そして自分を愛するように隣人を愛する。

最近、僕は、この聖句が当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではなくなってきているという現実があるのではないかと思うようになった。「自分を愛するように」という問題だ。現代は、なかなか自分を愛せないという人が増えて来ているのではないかと思うのだ。
人は愛するということと愛されるということを、時にごちゃ混ぜに考えてしまう、という話を、このブログでも何回か書いているが、この二つは全然違うことだ。愛されたいと思っている気持ちがどんなに強くても、愛されているという確信がなければ、愛する力にはなかなか繋がらなかったりする。
自分が愛さていることを信じられれば怖がらずに愛せるのに、一度愛されていることに疑いを持ってしまうと、なかなか愛することが出来ない。アイ・ラブ・ユーと伝えることに勇気が必要になってしまうのだ。自信が持てなくて、愛せなくなり、愛せないから愛されなくなる。悪循環の中で、自分を好きだと胸を張って言うこと、自分を肯定することが出来なくなって行く。

僕は友人から「原田は自分大好きやなあ、アイ・ラブ・ミーやな」とよく笑われる。本当に恵まれて愛されてきたからだと思う。最初は恥ずかしかったのだが、アイ・ラブ・ミーであることは現代においてはメッセージかもしれないと思うようになった。
一人きりでアイ・ラブ・ミーになれるほど、人は強くない。誰かからのユー・ラブ・ミーを信じられたときにアイ・ラブ・ミーということは生まれてくる。そしてそのためにはやっぱりアイ・ラブ・ユーを伝えななければならない。そんなことを考えていたとき、一緒に音楽をやっているメンバーから、「それこそ曲にすべきテーマやで」と言われた。

今回は「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」という曲の歌詞を紹介しようと思う。こっぱずかしい内容だが、歌っていうのは、不思議で、メロディーに助けられると、歌うことによって恥ずかしさが消えて、言葉が不思議と心に入ってきたりする。
お互いを指差しながら、この曲に合わせてお客さんが「アイ・ラブ・ユー♪」と歌ってくれる時、人って、本当は愛する事がこんなに好きなんだなと思うことがある。みんな本当に幸せそうな顔なのだ。ステージからのその景色はすごく素敵だ。ほんの少しの事で、悪循環は終わりを告げる。自分を愛するように隣人を愛せるようになれますように。

「アイ・ラブ・ユーでユー・ラブ・ミーでアイ・ラブ・ミー」

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる

生まれてきた事の意味や 生きていく事の意味 そんなこと分からないけど
ありがとうは嬉しくて 君のことが大好きで 戦争なんか大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

僕らを創った何かはあるか 終わりの向こうは何か  その全て分からなくても
優しくなれたら幸せで 役に立つの大好きで  傷つける嘘大嫌い それで大丈夫

アイ・ラブ・ミーで行こうよいつも アイ・ラブ・ユー君へと贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心は ユー・ラブ・ミーに支えられてる
アイ・ラブ・ミー寂しい夜にも アイ・ラブ・ユー世界へ贈る
アイ・ラブ・ミー愛する心で ユー・ラブ・ミーを喜んでいる

アイ・ラブ・ミー

アイ・ラブ・ユー ユー・ラブ・ミー アイ・ラブ・ミー

小さな祈り(聖書の話31)

今回は、日々の生活の中でよく思い出す聖句を選んだ。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(マタイによる福音書 6章34節)

好きな聖句だ。楽観的とはまた違う希望を感じる。一日の終わり、明日の事を心配しそうになるときに、「明日自らが思い悩む」という言葉に、なぜか励まされる。「未来が、自分の味方をしてくれる、一緒に思い悩んでくれる」そう感じるからかもしれない。それはつまり、未来を司る神様が、一緒にいて下さるという予感からくる希望だ。

僕は、比較的むちゃな締め切りを抱えてしまうことが多い仕事をしているのだが、「今日必ずやるべきこと」だけを、一生懸命やるようにしている。もちろん、計画することは大切だし、毎日、精一杯生きる事は前提だが、時々、まだ見ぬ未来におびえて、必要以上に心配をして、ドキドキしたり眠れなくなったりする。精一杯その日を生きたのに、そこには確かに成果は上がっているのに、その一日が終わるときに、感謝を忘れてしまうくらい不安に心を奪われてしまったりするのだ。

このブログでの「聖書の話」シリーズの第1回は、主の祈りを取り上げた。祈る方法と主の祈りの内容についてのお話だった。
「神様」と最初に神様に呼びかけ、祈る。そして、自分の祈りの言葉の最後に「本当に」という意味の「アーメン」という言葉を加える。そうすると、それは神への祈りとなり、どんな小さなことでも、どんなに下手な言葉でも、神は耳を傾けて下さるという祈る方法の話。あの回で、「主の祈り」は、本来、毎朝祈られるべき祈りだと書いた。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と生活に必要なものを毎朝一日分神様にお願いする。毎朝祈る事によって、生涯、神に守られる人生が約束されているということを学んだ。

私たちは、毎朝、今日一日を守り、豊かにしてくださいと祈る方法を与えられている。そのことを思う時、今回の聖句は、一日の終わりに私たちが何を思い、どのように祈ればいいかを教えてくれているように思う。

「小さな祈り」という曲を30代の初めのころに書いた。一日の終わりの曲だ。その歌詞を今回は紹介しようと思う。

小さな祈り

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 喜びもそして悲しみもとめどないけど

深い眠り与えられますようにと求めて
悪い夢を見ないようにと祈ろう

おやすみ 一日の疲れを癒す眠りにつこう
おやすみ 毎日はとても短く早すぎるけど

明日もまた良い日でありますようにと求めて
今日も守られて感謝しますと祈ろう

おやすみなさいと小さく祈ろう

神様から響いてくるもの(聖書の話30)

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

(詩編19章2節~5節)

僕は同志社高校でキリスト教学の授業を担当させてもらっている。ここ数年、キリスト教学特論というゼミのような選択授業が開講されていて、その授業で日本人の宗教観について学ぶ機会を得ている。日本古来の八百万の神を信じる信仰やアニミズムについて学生たちが発表するのだが、非常に興味深く思う事は、唯一神のキリスト教よりも、日本古来の信仰に、より親しみを覚えるという学生が多い事だ。
四季に恵まれ、自然が人間の生活に寄り添うこの国においては、神様を優しくただそこここに存在するものとして理解する方がしっくり来るのかもしれない。対して、砂漠の世界から生まれてきたキリスト教が感じ取る神様は、その生活を崩壊させるような自然の姿に似て、時に厳しく、裁きをもって人間に接してくる訳で、少し怖いし、面倒くさいものなのかもしれない。そういう意味では、キリスト教の神様は、日本の風土にはなじまないという意見も頷ける。

さて、今回の聖句だが、注解書などを読むと、「宇宙に与えられた神的秩序の賛美」である、というような表現が目につく。「古代世界の人は自然の中の音に耳を澄ましてそこに神の言葉を得てきた」のだという。現代の人々は、その言葉を聴き取る力を失っているという解説もある。
事実、わたしたちは自然に耳を澄まし何かを聴き取る力を失ってきているように思う。日本の宗教観へ共感する学生以上に、神様などいないと答える学生の多さには驚かされる。そして、何よりも、真実はどこにあるかを探求する事自体に興味がない人が増えているように思えるのだ。

経済的な安定が約束されているならば特に真実など必要がないという感覚。あるいは、世界は全て相対的であり自分にとっての真実があるに過ぎないという考え方。自分に一番都合のいい宗教を必要に応じてその都度選択し、社会の中で上手く立ち振る舞えればそれでいいという考え方。

けれど、本当は神様がいるかもしれないのだ。絶対的なことが存在するかもしれないのだ。全ての人にとっての真実があるかもしれないのだ。そう思うとやはり探求したいと僕は思ってしまう。そして、真実を確信し、真実に繋がる喜びを享受したいと思うのだ。

今回の聖句は、絶対的な存在としての神様に圧倒される人間の心を歌っている。「わたしたちが神様を感じるのはいつか」という問いに、この聖句は答えてくれる。「神様の声を聞きたい、できればしっかりとした言葉で」と思ってもそれはなかなか叶わない。けれど、たとえば空を見上げることで、神様の存在を一瞬にして感じとることもある。それは、本来誰にでもある感覚だと思う。美しい夕日や満点の星空や空を切り裂く稲光に、わたしたちは足を止め見とれる。そこには、創造主への予感があり、畏怖があるのではないだろうか。
神様から響いてくるものに耳を済ますことができる人でいたいと思う。

目を上げれば(聖書の話29)

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

(詩編 121篇1~2節)

今回の聖句が伝えているのは、視点の変換とその先に必ず見つかる希望への約束だ。
絶望の中にあって、閉じてしまった世界を動かし、そこから抜け出すためには、見ていなかったものに目を注ぐ必要がある。
うつむいてしまっている自分を奮い立たせて顔を上げ、やってくる助けを受け取る準備をしろと聖句は言う。そして、必ず、神からの助けは来るのだという強い信仰が感じ取れる。

それは、本当のことだろうか。どんなに望んでも助けがこない経験をした人も沢山いるのではないだろうか。しかし、同時に、何も状況は変わらないのに、自分の物事への見方が変わる事で、全てが解決したり、解決の糸口をつかむ経験をする事も事実だ。
わたしたちは、知らない間にうつむいてしまってはいないだろうか。何かにおびえて目を閉じたり、疑いの心で本当のことを見失ったりしてはいないだろうか。

目を上げよう。

それは、小さな変化かもしれないけれど、きっと、新しい発見があるように思う。「目を上げれば」という曲を書いた。今回は、その歌詞を紹介したいと思う。

「目を上げれば」

出来ない事ばかりで情けなくなってる 時間だけが過ぎてく
抱えきれないくせに強がりな僕は  助けて欲しい事を 本当に伝えようとしたかな

誰かがそばにいて 誰かと目が合って
笑い合える幸せに気付けば やがて全てはかわる

進まない毎日が嫌になってくる 約束は置き去りに
うまくいかない事に焦ってる僕を  取り囲むものは 本当に駄目な事ばかりかな

誰かがそばにいて 誰かと目が合って
愛し合える幸せに気付けば やがて全てはかわる

難しいことじゃない 沈む思い断ち切って 目を上げれば

今 君ががそばにいて 今 君と目が合って
笑い合える幸せに気付いて 確かに全てはかわる
誰かがそばにいて 誰かと目が合って
愛し合える幸せに気付けば 確かに全てはかわる

待ち望む(聖書の話28)

「こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」

(マルコによる福音書 14章36節)

この間、久しぶりに「Waiting for a chance」という曲を歌った。10年以上前に書いた曲だ。50歳も近づき、30代の頃とは随分歌詞の見え方も変わっていることに気付く。未来の描き方も変わるからなのだろう。
「Waiting for a chance」を和訳アプリなどで訳すと「チャンスを待っている」という訳が出てくる。「waiting」で「待機」という訳も。でも、なんだかしっくりこないなと思っていた時、その曲のタイトルを、「待ち望む」という気分で歌うのは、なかなかいいなあと感じる文章に出会った。

ヘンリ・ナウエンの「待ち望むということ」という文章だ。

現代は待つ事を困難にした、と筆者は語る。待てない理由は、恐れがあるからだ。変わり続けなければいけない、攻め続けなければいけないという強迫観念がわたしたちの時代にはあり、そのことが、待つ事への恐怖を大きくしているという分析は、なかなか鋭いものだと感じる。自分自身も、その恐れによって「待てない」ということがしばしばある。
何もせずにいることと「待ち望む」こととは大きく違う。筆者は聖書の登場人物たちを例にあげ、こう語る。「待っている人々はとても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今いるところで育ちつつあることをよく知っていました。まさにここに、待つことの秘訣があります。」(ヘンリ・ナウエン/わが家への道/工藤信夫訳)
未来を自分の思い通りにしようとする「願望」は、それが叶わないことへの恐怖を生み、待つ事を難しくする。しかし、神との約束の実現を信頼する「希望」は、未来に対する開かれた態度を生み、待ち望むことに力を与える。待ち望むことは、今を生きることに繋がる。
ヘンリ・ナウエンの語る「待ち望む」ことは、随分積極的だ。

表現者の友達にこの話をすると、「人事を尽くして天命を待つ、やな?」というシンプルな答えが返ってきた。確かにそうだ。自分の作品へのアイデアを探して探しぬいて、くり返しイメージを組み立てて、その努力の先で、新しい作品が生まれてくるのをずっと待っている。絞り出すようにもがいてみても、結局は待つしかないのだ。創造という行為は、宗教的な行為だなと思う。開かれた態度で臨むときに、たとえ予想外な結果であっても、生まれて来た作品を受け入れることが出来る。

今回の聖句は十字架にかかる直前に、ゲツセマネでイエス様が神様に祈った時の言葉だ。願望と希望の間で揺れ動く心が読み取れる。この後、弟子の一人、ユダに裏切られ、十字架につけられ、死ぬことになるイエス様。十字架にかけられたイエス様は完全に受け身だ。もはや、なにもすることが出来ない。しかし、その中にあって、イエス様は「積極的に今を生きている」と感じさせられる。それは、全幅の信頼を神に寄せて、自分の死の意味を神に委ねて「待ち望む」姿なのだと思う。

絶望を越える希望があるということを信じて、待ち望める人でいたいなと思った。

風はおもいのままに吹く(聖書の話27)

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

(ヨハネによる福音書3章8節)

僕にとっては、表現として、言葉として、すでに魅力的な聖句である。確かにわたしたちは「風」を感じる事はできる。しかし、本当はその風がどこで生まれ、どこで消えてしまうのかを知らない。「風はおもいのままに吹く」という言葉に、物事の本質が隠されている予感と自由の香りが漂う。

僕が高校で行っている授業の一年間のテーマは「生命(いのち)」なのだが、毎年、この聖句を自分のキリスト教学の授業を説明するために紹介する。生命について考える事は「風に思いを巡らせるようなこと」「答えのないことについて考えること」だと思うのだ。今年度の授業も始まったこの時期、いい機会なので、この聖句を味わってみることにした。

この聖句はニコデモというファリサイ派の議員とイエス様の対話の中で、イエス様の言葉として紹介されている。30歳くらいだったと思われるイエス様より、随分年上で、社会的にも地位があったであろうニコデモは、「永遠の命」が欲しくて、イエス様に頭を下げて、教えを請う。しかし、イエス様にかなり厳しいことを言われることになる。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか」(ヨハネによる福音書3章10節)。こてんぱんなのである。文脈で理解すると、「風を感じる事ができてもその全ては分からないように、神の世界のこと、霊の世界のことはお前にはわからないのだ」とイエス様はニコデモに伝えようとしておられる事になる。

僕が、この聖句に魅力を感じたのは、自分の命が風のように自由に飛び回るイメージが湧いたからかもしれない。しかし、聖句は風を感じる受け手としてわたしたちを位置付けている。わたしたちに全てを見せず、自由に吹いているのは神の側にある者たちだ。永遠の命が欲しい、天国のことを知りたい、命の不思議を理解したい。そういったわたしたちの欲求を、イエス様は一蹴する。

ギリシャ語でもヘブライ語でも風と息と霊は一つの言葉で言い表される。なので、「風の音を聞く」という表現には、「霊の声を聞く」というようなニュアンスがあるらしい。

はたと、全てを知ることは出来ないが、霊の声を聞くことは出来るのだと気がついた。わたしたちは霊の声を聞くことが出来る。しかも、かすかに聞き取れるとか、不確かだがそうかも知れないというような状況ではなく、はっきりと聞く事ができる。なぜなら、それはイエス様の口からしっかりと語られるからだ。
今回の聖句が含まれるヨハネによる福音書の3章を読むと、年をとって新たに生まれる事など無理だと嘆くニコデモにイエス様は、「水と霊によって新しく生まれることで神の国に入れる」と伝えようとされている。
注解書を読むと「水と霊」はバプテスマのことを指すという解説に出会う。洗礼によって信仰を授けるときにキリスト教では浸水を行うのだ。
もちろん、「はっきり言っておく」とイエス様が語り出しても、難しくて分からないことだらけなことも多い。それでも、人の口から発せられる言葉を聞き、理解する事は、神様からの声を魂で感じ理解する事に比べれば、随分易しいことだと思うのだ。そのためにわたしは来たのだとイエス様は言う。わたしたちには捕まえることが出来ない自由に吹く風をその体にとどめて、そこに立って下さる。わたしたちはその声を聞くだけでいいのだ。そして、その声を聞くことによって、少しずつ変えられて行くように思うのだ。霊によって生まれる者へと変えられて行くように思うのだ。

わたしたちは確かに今「生命」を与えられている。僕も、自分が生きているということ、自分の中に生命があるということを確信している。けれど、その生命がどこから来てどこへ行くのかを知る事はできない。
イエス様の声に耳を傾け続ける事で、いつか、わたしたちも霊から生まれたものとして、最初に感じた、風のように自由に飛び回ることを許されるのかもしれない。そんなことを思った。

わたしのもとに来なさい(聖書の話26)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

(マタイによる福音書 11章28~30)

イエス様の言葉として書かれている今回の聖句。「休ませてあげよう」という言葉が魅力的だ。しかし、どうも「簡単に楽が出来る」と言うことではないらしいという直感が働く。その謎もさぐりながら、聖句を味わってみよう。

聖書の難しさの一つは、その言葉が訳語であることに起因する。例えば、「柔和で謙遜な者」と自分のことを表現する人物に「謙遜」を感じるのは難しい。いろいろと調べて「抑圧にめげない者、心底身分の低い者」(本田哲郎:小さくされた人々のための福音)という訳を見つけて、素敵だなと思った。きっと本当にイエス様は「柔和で謙遜」だったように思う。でもここでは、私たちが目指すべき人格の目印としてこの言葉を読むべきかもしれない。「私は徹底的に身分の低い者として生涯を生きる。その私に従い、そのように生きなさい」とイエス様は言うのである。そこに安らぎが生まれると言うのである。イエス様の言葉にはよくこういうねじれが生じている。「後の者が先になる」のである。そしてそれは真実でもあると思う。例えば、本当に人に仕えることが出来る人が、気がつけばリーダーになるということが起こる。
もう一つの難しさは聖書の世界との生活環境の違い。「軛(くびき)」という言葉を私たちは生活の中で使わない。調べると「軛」とは牛や馬に車を引かせ、働かせる時に、車の先から牛や馬のくびにあてる横木の事らしい。

直感は正しかった。「休ませる」と「軛を負う」との間には、ある違和感がある。「働かなくていい休み」ではないのだ。働いていては休みにならないではないか。休ませてくれるのではないのか。

聖句をもう一度始めから読み、視点を動かしてみた。私たちが疲れを感じ、重荷を感じるのはどのような時だろう。忙しくても疲れない、大変でも重荷を感じない時というのが確かにある。人生を積極的に歩む時に、目的と意義を与えられると、そこに平安があるということを経験する。休めないのは、働いているからではなく、「何のために」働いているかを見失っているからかもしれない。

時々、「宗教は人生にやってはいけないことを作るので窮屈ではないですか」と問われる事がある。「やるべきこと」ばかりを押し付けられるという印象なのかもしれない。そう思うと確かにそれは軛だ。しかし、「こう生きるべきだ」から「こう生きたい」へと心が変わると、日々は自由で平安なものへと姿を変える。こう解説すると「なんだ、洗脳されるってこと?」と反論が返ってきそうだが、必ずしもそういう事でもない。僕が思うに、イエス様の「軛」とは、「愛する」ということではないだろうか。人に仕え、愛せる存在となった時、感謝され愛される人生が実現していく。そして「愛せない存在から愛せる存在への喜びと平安」が与えらるということをこの聖句は言っているのではないだろうか。

聖句を読む私たちは、メッセージの受け手として、自分を誰だと考えているのだろう。疲れた者、重荷を負う者といった受け手が今回の聖句の中からは読みとれる。少し遡れば、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11:25)という表現も。
この文章を読む人の中にも、本当にいろいろな人がいるだろう。状況も自己認識も様々。それでも、自分の中に足りなさを感じ、救いを求めているなら、その答えを与えようとイエス様は人生を賭けて呼びかけて下さっているのだと思う。自力に拘り、弱さを認めない頑な心では、なかなか素直に受け入れにくい聖句かもしれない。疲れを認め、幼子のような素直さで耳を傾けるべきなのかもしれない。その先で、「休みたい」と思っている人には休み与えを、一生懸命生きていきたいと思っている人にはその道を示して下さると思う。その道の上で柔和で謙遜な人格として育てられることもきっとあるだろう。

全ての人たちは幸せになりたくて一生懸命生きている。そのことを思うとき、このメッセージに洗脳ではなく真実を、排他性ではなく普遍性を見いだす。少なくとも、私たちはイエス様のメッセージに出会った。全ての人にイエス様は「わたしのもとに来なさい」と言われる。それは全ての人に向けられた招きの言葉だと思う。

幸いに至る道を歩ませ、魂に安らぎを与えるものは何か。私たちの重荷を取り除くものは何か。私たち自身の中にある知恵ある者と幼子のような者がその問いを投げかけられていると思う。

地の塩、世の光(聖書の話25)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

(マタイによる福音書5章13~16)

今回の聖句はイエス様が弟子たちにむけて伝えた言葉だ。
地の塩、世の光。「自分は料理を支える塩です、世を照らす光です」。なかなかそんな大それたことを自信満々に言える人はいないだろう。けれど、イエス様はあなたたちにはそうなれる可能性があるのだと弟子たちに伝える。自分はそういうレベルのことをやろうとしているのだ、というイエス様の思いがそこにはある。追い求めるべき理想に妥協しないということ。虚栄心やエゴイスティックな成功への想いではなく、本当に大切なことや真理を求めて行く時に、妥協のない理想、後ろめたくない理想というものが見えてくる。
僕自身、自分の音楽活動を思えば、「後ろめたさ」がつきまとう理想にすぐ引き込まれてしまうなと感じる。そういう活動は、だいたい光を放たない。頑張っても行き止まりなのだ。
厳しい現実の中でも、一点の曇りもない理想を追い求める決意。その先にこの私たちのような小さな存在が光を放つという奇跡が起こるのだと思う。

随分大きな風呂敷を広げたような気分。しかし、それはわたしたちに今日起こる出来事だ。会社の中で、友達との関係の中で、学校でのクラブ活動や学園祭で、あるいは家庭の中で、わたしたちは責任をもって、人の前に立つ事がある。「あの時ちゃんと言えばよかった、そしたら傷つけたりせずにすんだのに」というようなことがたくさん起こる。分かっていたのに、気付いていたのに、それ以上の言い訳に目を閉じてしまう。その一言を言えるか言えないか、そんな小さな瞬間に「塩」となり「光」となるという事が起こる。
それは、流れ星が流れるような小さな光かもしれない。その光を放つためには少なからず勇気が必要だとも思う。それでも、その輝きは、それを目にした人をはっとさせる輝きだ。

「本当に大切なことや真理」を求める事。「塩」となり「光」となる事。それは、神様の存在を示す行為だとイエス様は言う。

みなさんが、そして僕自身も、神に喜ばれるような、強い理想をもって生きていけますように。そんな事を思いながら、今回は「流星」という曲の歌詞を紹介する。

「流星」

広がる夜景は 瞬く暮らしを集め
僕らは溺れて 見失って流星を待った

無力な僕らあざ笑うかのように

君だけの 僕だけの 君にとっての 僕にとっての
特別 大切 予期せず夢中になった

流れる星ふたつ 追いかけるように

小さきものだけど 切り裂く 闇を抜け 光る線を描いた
小さき僕らは 切り開く 未来へ向け 光る線を描くよ

転がる毎日は 些細な思いを潰す
僕らは恐くて 目を伏せて流星を待った

無力な僕らあざ笑うかのように

君だけの 僕だけの 君にとっての 僕にとっての
特別 大切 予期せず夢中になった

流れる星ふたつ 追いかけるように

小さきものだけど 切り裂く 闇を抜け 光る線を描いた
小さき僕らは 切り開く 未来へ向け 光る線を描くよ
小さきものだけど 切り裂く 闇を抜け 光る線を描いた
小さき僕らは 切り開く 世界へ向け 光る線を描くよ

星のうたと僕のふね(聖書の話24)

ハレルヤ。
天において 主を賛美せよ。
高い天で 主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって 主を賛美せよ。
主の万軍よ、こぞって 主を賛美せよ。
日よ、月よ 主を賛美せよ。
輝く星よ 主を賛美せよ。
天の天よ
天の上にある水よ 主を賛美せよ。

(詩編148章1~4)

イエス・キリストの誕生日として祝われるクリスマス。長くなり続ける夜の時間がイエス様の誕生と共にその時間を短くして行く。キリスト教が丁度、冬至の頃にイエス様の誕生を祝うのは、この宗教が、よく月や太陽や星を見て、空を見て、神を想ってきた証しだと思う。
旧約聖書にも新約聖書にも、空や星の記述は沢山ある。僕がその中でも好きなのは、イエス様が生まれた場所を占星術の学者たちに星が教えるという記述だ。随分乱暴でロマンチックな記述だと思う。
この世の救い主がお生まれになったことを夜空を見つめて気がつき、星に導かれてイエス様の元に辿り着くという物語だ。

進むべき道を教えてくれる星。未来を指し示し、希望を象徴する星。そして、確かにイエス様は時代を変え、世界を変えてきた。2000年もの間、繰り返し、幾たびも、幾人もの人たちが、イエス様という光に出会い、自分の進むべき道を見つけてきたのだ。

今回は旧約聖書の中から、空を見上げ神を賛美する聖句を選んだ。僕の歌の中にも星はよく登場する。今回は「星のうたと僕のふね」という曲の歌詞を紹介しようと思う。

「星のうたと僕のふね」

僕は一人 海を漂ってた 目的地も分からぬまま
闇の中に輝いた光は 歌になって僕に届いた

帆を張ろうゆっくりとゆっくりと
風を読み波を越えて行けるから
君の声を頼りに

寂しくっても 見失っても
顔を上げれば空が見てる

君の語る愛を信じて 海のおもてを滑りだせば
同じ夢を追いかける者たちが 一人また一人と集まった

それ以来ゆっくりとゆっくりと
風を受け流れにのってきたんだ
僕らは歌を頼りに

帆を張ろうゆっくりとゆっくりと
風を読み波を越えて行けるから
聴こえる歌を頼りに

寂しくっても 見失っても
顔を上げれば空が見える

寂しくっても 見失っても
顔を上げれば空が見てる

手とハート(聖書の話23)

イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄ってきて、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起きあがった。このうわさはその地方一帯に広まった。

(マタイによ福音書 9章18節~26節)

2014年、ハラダイス・ライブのテーマは「手とハート」だった。テーマが決まると同名タイトルの曲を書く。そして、そのテーマと向き合いながらライブまでの日々が進む訳だ。ちょうどその頃、礼拝のお話の依頼を機に、聖書の中に「手とハート」を探しに行ってみたことがある。
すぐに思い出したのは「出血が続いている女」のエピソードだった。一種の婦人病であり、汚れた病気と理解されていた病いに長い間苦しめられていた女性の話だ。
僕の記憶の通り、聖句には手にまつわる言葉がたくさん出てきた。「手を置いてやってください」「イエスの服の房に触れた」「触れさえすれば治してもらえる」「少女の手をお取りになった」
二つの物語が同時進行している今回の聖句。一つは、娘が死んでしまった指導者の物語、そして、もう一つは僕が思い当たった、十二年間も病に苦しめられている女性の物語だ。登場人物の二人は、どちらも、本当の絶望の中からイエス様に近づいて来ている。そして、触れてもらう事と触れる事でその絶望から救われるのだ。
奇跡は触れるという行動と、その行動を促した心、ハートが揃った時に起こったのだということを発見して、「手とハート」という言葉が、ますます好きになったのを思い出す。もちろん、僕の歌にはイエス様のような力はない。見捨てられた人々に振り向いて、あるいは、ついて行って、希望を与える。「死」という滅びの絶望にさえ打ち勝つイエスの「手とハート」には遠く及ばない。それでも、小さな希望を生む決意としてこの歌を歌っていけたらいいなと思う。

「手とハート」

歌声に手を叩く  雨上がりの青空
坂道を駆け上がり ハートはいつか一つに

伸ばした手は未来に 繋がる虹をかけて
さよならと始まりを ハートに映し出してる

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
自然な気持ちは止められないさ

手とハートで  手とハートで  手とハートで  手とハートで

結んだ手は確かに  言葉よりも確かに
勇気と希望を生み ハートを奮い立たせる

手作りの会場も 手を振る君の顔も
夕焼けに染められて ハートに刻まれていく

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
不自然になっても構わないさ

想いに僕は愛を乗せて 会いに行こう 君へと
手とハートで伝えて
乱暴に時には野暮になって 会いに行くよ 君へと
自然な気持ちは止められないさ

手とハートで  手とハートで  手とハートで  手とハートで

新しい命に生きる(聖書の話22)

「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

(ローマの信徒への手紙6章4節)

この箇所を読んで、直感的に「ああ、『新しい命に生きる』という言葉は魅力的だなあ」と僕は思ったのだが、キリスト教徒でない学生や友達に、その話をすると、「あんまり意味が分からない。命に生きるって何?」というような感想が返ってきた。確かに難しいというか、独特な表現だ。「新しく生まれ変わる」ならどうか、「それなら少し分かる」と友達は言う。「新しく生まれ変わる、自分のままで」ならどうか「うん、輪廻天性みたいな感じか?」そんなやり取りが繰り返され、「いや、この肉体のままで、生まれ変わるんだけど」となると「あんまり分からない」ということになった。質問の角度を変えてみようと「新しく生まれ変わりたいか」と聞くと「いや、いまのままでいい」という。
だんだん分かってきたことは、まずは言葉がすっと入って来ないということ、そして、言葉の意味が分かってきても、今の自分に満足している人にとって、「新しい命に生きる」という言葉はそんなに魅力的ではないということだ。

「ローマの信徒への手紙」はパウロという人が、ローマのキリスト教徒たちに送った手紙とされている。この6章でパウロは信仰者になるという事を、「不義」から「義」へと変えられること、「罪や間違ったものに支配されていた状態」から「罪を赦され正しい事に支配されている状態」へと変えられることだと語る。そこには二つの視点が存在する。
一つは贖罪論の視点。イエス様の十字架での死を、キリスト(救世主)の血(死)による贖いとして理解し、イエス様の死によって自分の罪がすでに神様に赦されているという視点だ。もう一つは共死共生論の視点。「自分たちもイエス様に従う事で死を克服し、復活出来るのだ」という視点。
この贖罪論と共死共生論とを結合して、「イエス様の十字架での死と復活を信じる事で、私たちは罪から解放され正しいもの『義』に支配される者として神に認められるのだ」という、信仰義認論をパウロは今回の聖句に展開していると言える。

さて、聖句を最初から見てみよう。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ」。すでに難しい聖句だ。

バプテスマとは、もともと「水にひたす、沈める」という意味。キリスト教では多くの場合、信仰者になる時にバプテスマという礼典を行う。僕が信仰を受け入れた当時、僕が通う教会では加茂川の上流でバプテスマが行われていた。白い服をきて、教会員のみんさんが讃美歌を歌って下さる中、牧師の待つ川の中へと歩いて行き、牧師の「父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授ける」という宣言とともに、まさに全身を「沈められる」のだ。
見に来てくれていたクリスチャンではない友人が、終わった後、しみじみと「あれで何か変わったん?もうクリスチャンなん?」と聞いたことを思い出す。「分からん、あんまり何にも変わらん」と答えたのを覚えている。

聖句は「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と続く。

ある解説に「これは『イエス・キリストの中に浸りきる』ということだ」というものがあった。キリストの中に、キリストの死の中にバプテスマされる、浸りきる。なかなか興味深い表現だ。「浸る」という言葉の持つ息苦しさこそが死であり、その先に復活がある。すなわちそれはキリストとその死との神秘的結合に入れられるということ。「その死にあずかる」とは、イエス様の十字架での死が、自分の命に及ぶということを示唆している。

聖句はこう続く。「それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

つまり「バプテスマを受けたものはイエス様と同じように十字架についたのだ、自分の罪の償いとして十字架にすでについたことになるのだ。そして、赦されて、復活することまで約束されているのだ。」と語られている。

学んで行くと今回の聖句がキリスト教を信じた人たちへ向けられた言葉だと分かる。
ふと、自分は新しい命を生きられているか、という問いが浮かんだ。確かにバプテスマを授けられた。しかし、相変わらず、罪を犯してしまう。この聖句は、そんな無力な信仰者を励ましている。バプテスマを授かった日、僕は何も変わらないような気がした。けれど、やっぱり、全ての事はあの日に変わったのだと思う。自分を支配しているものが変わったのだと思う。
パウロは未来を示しながら、「大丈夫だ、罪から解放されている、本当に意味のある人生を生きることが出来る、恵みを受け自由に生きて行けるはずだ」と語りかけてくれている。

自分にとっての聖句の意味を感じながら、信仰者でない人たちにとって、この聖句が何を語るかを考えていて、「やっぱり、信仰を受け入れていないと、この聖句に魅力はないかな」と友達に言うと、「いや、例えば健康を害して『癌かもしれない』と思った時に、うろたえる自分などに出会うと、信仰者はいいなあ、こんな時強いのだろうなあとは思うよ」という返事が返ってきた。随分、こちらの意図を汲んで答えてくれた、頭のいいコメントだと思う。しかし、同時に非常に大切な視点だと思った。
誰もが感じる死という絶望を目の当たりにした時に「復活」という「死と向き合いそれに打ち勝った出来事」が輝きをもって自分に迫ってくるのだと言う事に気付かせてくれたからだ。それは、キリスト教だけが提示出来る、イエス様の生涯と復活によって与えられている、あらゆる絶望を超えた希望なのだ。

先日「チャッピー」という映画を観た。人工知能の話だった。ロボットが心を持つようになる。ところが、諸事情でバッテリーがなくなり、自分は死んでしまうのだということに気がつく。ものすごい勢いで成長して行くロボットのチャッピーは、心を新しい体へと移すことを思いつくというお話だ。もう、その時点でファンタジーなのだが、一緒に観に行った友達に感想を聞いた時、「新しい体になれるのはいいなと思った」という言葉が返ってきた。消してしまいたい過去、どうしようも出来ない思い。そういう思いの中で生きている人が少なくないこともまた事実だ。

キリスト教において、「新しい命に生きる」ことはファンタジーではない。わたしたちはイエス様によって、新しい命に生きる事ができる。そして、それは全ての人に開かれたことだ。常に「死」はわたしたちの人生に用意されていて、罪の問題も、絶望も、それぞれの人生には必ず介入してくることなのだ。この聖句のメッセージは、全ての人に関係のあることなのだと認識を新たにさせられる。
そして、信仰を受け入れた者としては、「祈りの度に日々の自分の罪を悔い改める」という不完全な自分であっても、バプテスマによってすでに罪から神へと自分の支配者が変わり、新しい命を与えられていることを思う。それは、自分の力で変わったのではない。神様が見つけて下さって、変えられたのだ。神様は、全ての人に、まさに今、働きかけておられるのだと思う。「神様の側からの働きかけで自分自身について、もう起こってしまっている事実」として、それぞれに新しい命を生きている、生きて行ける、という喜びを見失わないでいたいと思う。

「赦し」という大逆転(聖書の話21)

「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

ヨハネによる福音書、8章1節~11節

今回の物語は民衆に受け入れられ始めたイエス様を邪魔に感じている「律法学者たちやファリサイ派」というエリート集団の思惑の中で進められます。エリート集団は姦淫の罪を犯した女性の処遇をイエス様に尋ねます。もちろん悪意のある質問です。考えられるイエス様の答えは二つ。一つは「それならば死刑だ。皆で石打ちの刑に処せばいい」、もう一つは「その女を殺してはいけない」。
死刑を勧めた場合、イエス様の教えに集まった民衆はがっかりする。かたや、女を殺してはいけないとはっきり言ってしまうと、それは法律違反であり、イエス様を訴えることが可能になります。しかし、イエス様はそのどちらも口にはしません。かがみ込んで地面に何かを書き始めるのです。 授業で高校生にその動きについて、イエスの気持ちを予想してもらうと、「困っている」「いじけた」「法律を思い出している」「トンチがひらめくのを待っている」など、予想もしない答えが返ってきます。
このことに関する、加藤常昭先生の注解は見事です。「神も主イエスも私どもが声をかけても返事をなさらない時があると言うことを知らなければならない。」と先生は書いています。また、「私どもの祈りは答えられない時がある。私どもの問いかけは無視される時がある」とも。
つまり、イエス様は沈黙を持って、問いかける者に明確に答えているということになります。イエス様の側には、最初から迷いなどない。恐れているわけでも、いじけているわけでも、困っているわけでもない。答えるに値しないことだと無視し、対話を拒否しているのだと。 私は、祈りの中で「神様どうしてお答えにならないのですか」「なぜ、黙ったままなのですか」という問いを何回も発した経験があります。この問いは、特に自分が勝手に答えを用意して、神様に同意して欲しい時によく起こるように思います。ところが沈黙です。これはなかなかまずい展開です。本当に落ち着いて、自分のエゴを捨てて、耳を傾けると、耳の痛い答えが返ってくるパターンです。
今回のイエス様の答えは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というものでした。予想された二つの答えではない、まさに耳の痛い答えです。

さて、私たちはこの場所にいたら石を投げるでしょうか。授業でその質問をすると、ほとんどの生徒は投げないと答えます。でもそうでしょうか。「僕は投げると思う」と私が言うと、少し意外そうな表情を生徒たちはします。私は、この場所にいたら石を投げたと思います。ただし、条件があって、誰か一人が最初に投げてくれたらです。誰か一人が石を投げたら、私も夢中で投げただろうと思うのです。合法的に人を殺せることに夢中になり、この街から悪を追放している正義に酔いしれて、投げただろうと思うのです。だって、法律で彼女は間違いなく死刑なのですから。イエス様が、「この街に罪を残しておいてはいけない、全員で、この人を裁こう」と力強く叫ばれたらなおのことです。「それはおかしい!」とは絶対に言わなかった、あるいは、言えなかったと思うのです。
この聖句において、自分を民衆の中に置いて読む時、私たちは、石を持って投げようとしている時にイエス様の言葉を聞いたと想像するべきだと思います。親子でその場所に来ていた人もいたかもしれません。「さあ、おやじ、一緒に投げよう!」と父を見たら、父が石を置いて帰っていく姿を息子は見たかもしれない。そして、我に返って、自分も石を置いてその場所を後にしたのでしょう。そういうギリギリのところで石は投げられなかったのだと思うのです。もし、無知な子どもが一つ目の石を投げたら、全員が一斉に石を投げたかもしれない緊張の中で、イエス様の言葉が響いて、奇跡的に一つ目の石は投げられることが無かったのだと思うのです。
とにかく石は投げられませんでした。そして、全ての人が帰っていきました。最後に残ったのは女とイエス様です。
実は、誰もいなくなった時、女は、背中を向けているイエス様に気付かれないように逃げてしまうことが出来たと思います。しかし、女は逃げませんでした。彼女は待っていました。石打ちの刑で殺される寸前にそれが中止になりそうなその状態の中で、最後のイエス様の言葉をただ待っていたのです。なぜ、彼女は逃げなかったのでしょう。なぜ、逃げることを思いつかなかったのでしょう。それは、おそらく、彼女が自分の死刑を受け入れていたからなのだと学んでいく中で気がつきました。自分の犯した罪で石打ちの刑に処せられることを彼女は覚悟していた。そして、最後の一人となったイエス様が自分にどのような態度をとり、どのような言葉を投げ掛けるのかを静かに待っていたのだと思うのです。
イエス様の言葉は彼女にとって意外だっただろうと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
なぜイエス様は彼女を赦したのでしょう。イエス様も自分に罪があるから石を投げなかったのでしょうか。もしそうなら、この話は聖書に載せる価値がまったくない物語だと私は思います。「自分も含め、みんな悪いことをするものだから、赦しあいましょう」そんなことをこの聖句は伝えているのではありません。
最後のイエス様の言葉を聞いたのは女だけということになります。つまり、この経験をした女自身が、後、イエス様との出来事をキリスト教が形成されていく集団の中で話したということでしょう。彼女は、「もう罪を犯してはならない」というイエス様の教えを守った。守っただけでなく、その言葉の意味を深いところで理解し、キリスト教徒となっていったのだと思うのです。
自分の罪は死刑に値するということを受け入れていた彼女は、どのような意味でイエス様が自分を赦したのかをその日には理解しなかったでしょう。しかし、しばらくして、イエス様が十字架につけられて殺されるという事実を知ることになります。無実の罪によって十字架につけられたイエス様の死を彼女ははっきりと自分の身代わりとしての死だと感じたのだと思います。「わたしもあなたを罪に定めない。」と言うイエス様の言葉の後ろに、「私があなたの代わりに十字架につくから、心配しないでいい」という意味が隠されていたことに、彼女は気がついたのです。だから、自分の経験したことを語り続けたのではないでしょうか。そして、聖書にこの物語は書き加えられたのだと思うのです。

罪の裁きは、なし崩し的にごまかされた訳ではなかった。その裁きはイエス様の十字架によって確かに行われ、償われた。そのことを見逃してはいけません。
イエス様が罪を赦す人々は、本当に心から自分の罪を認めている人々です。誰もいなくなった逃げることが可能な状況の中で、罪を認め、最後の一人であるイエス様に、石で打ち殺される覚悟をしていたからこそ、女は赦されたのです。そして、二度と罪を犯さなかったのだと思います。彼女はイエス様に赦されて生まれ変わった。復活をした。絶望と悔いの終点で希望の大逆転が起こったのだと思うのです。
イエス様によって体験する大逆転。その大逆転は、私たち一人一人に与えられている希望なのだと思います。この物語のどこに自分を発見するか。罪を犯さずには生きていけない私たちは女の中にこそ自分を見出すべきなのかもしれません。